17年10月日記
西暦 17年10月31日 火曜日 10月最終日
 いつの間にか、10月が終わる。今年下半期はなんと言っても足腰の痛みとの戦いに終始した。6月終り頃の絶対安静から始まって二ヵ月ほどはリハビリに通い続け、その後少しは回復して、今は両足首に5kgのダンベルをつけて筋力増強に励んでいる。しかし、無理は禁物だ。数日前の夜、外に出てひっくり返ってしまい、しばらく気絶していた。
 椎名誠が随筆で
 「若い頃、カラダの傷はすぐ直るが、ココロの傷はなかなか直らない。年をとるとココロの傷はすぐ直るが、カラダの傷はなかなか直らない」と書いていたが、それが至言であることを実感する。
 さあ、きょうも福井土木事務所で打合せの上、設計図書訂正捺印だ。改めて言うまでもないが、お役所というところは実に朝令暮改だ。全部が全部とは言わないが、指示事項が上に上がるにつれて変わってくる。そんなんならば、初めから部課長級と打合せさせてほしい。
 明治に入って武士が職を失い民間職に手を出すが奏功せず没落していったのも、むべなるかなだ。いずれにしろ、きょうの打合せがうまくいったら一服だ。散髪に行ってこよう。


西暦 17年10月30日 月曜日 土砂降りの昨日

 昨日の午前中は、土砂降りのなかでの明社歳末助け合い募金活動となった。おかげで服はびしょ濡れだ。

 午後は伊井小学校へ。
 体育館で第五回目のバイオリンコンサートが開かれ、そこが明社歳末助け合い募金の場となったのだ。
 

 

 
 今回の出演者は30名くらいと少なかったが(僕の嫁さんも出演)、一番印象に残るものであった。小学生10数名が出てきての合同演奏となったためである。あの子たちのなかから将来にスターがでてこないとも限らない。
 今年で伊井工業団地からの助成は打ち切られるが、ワンコインコンサートとしてでも、続けていってほしいと思う。
 なかにし礼著「さくら伝説」を読み終えた。
 不思議な小説だった。背徳の相手が沖縄の神女(かんじょ)で、主人公自身の出生の秘密を彼女を通して知っていく過程で死への憧れを極限にまでつきつめていく。「死」は「永遠の生」への通路であるという主人公の哲学が色濃く反映されていて、結末がハッピーエンドなのかどうかもよくわからなかったが、それはともかく、琉球弧への旅にもう一度挑戦したい。


西暦 17年10月28日 土曜日 無題  
昨晩の11時半頃、自宅近くの「あわら消防署」から消防車出動サイレンが突如激しくなった。災害情報センター(51-2000)に電話をかけると「温泉三丁目で火事発生」とのメッセージ。


西暦 17年10月27日 金曜日  
 またまた吟醸酒がやってきた。

 昨晩は「議会報告会」に出かけた。


西暦 17年10月26日 木曜日 きょうは図面締め切り日 
 
 議会報告会は次の通り開催中。

 字面が情景を脳内にくっきりと喚起させる芭蕉先生は偉かった。詩心のない自分が恨めしい。 

 梅が香にのつと日の出る山路かな

 水取りや氷の僧の沓の音

 奈良七重七堂伽藍八重ざくら

 古池や蛙飛び込む水の音

 曙はまだ紫にほととぎす

 蛸壺やはかなき夢を夏の月

 夏草や兵どもが夢の跡

 五月雨の降り残してや光堂

 秋近き心の寄るや四畳半

 荒海や佐渡に横たふ天の河

 数ならぬ身とな思ひそ玉祭

 塚も動け我が泣く声は秋の風

 石山の石より白し秋の風

 物言へば唇寒し秋の風

 この道や行く人なしに秋の暮

 秋深き隣は何をする人ぞ

 葱白く洗ひたてたる寒さかな

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 西暦 17年10月25日 水曜日 無題
 DeNAが広島を破りセリーグ制覇をなしとげた。ラミネス監督が最大の功労者と思われがちだが、負けず劣らずが四番でキャプテンの筒香。
 初戦が雨の為0対3のコールドゲームとなった時、「まだやれるのに」と息巻いていた選手数人を諌め、「忘れろ。明日が初戦だ」と説得した。
 組織のリーダーがアホだと組織は壊れるが、優秀だと組織は一枚岩となる。
 竹西寛子著「松尾芭蕉集・与謝蕪村集」を読了。

 西暦 17年10月24日 火曜日 無題 

 百均ショップで買った箒の使い勝手が非常にいいので、昨日は仕事を殆どせずに掃除ばかりしていた。自分の部屋をきれいにすることで気分が変わることを、この齢になって初めて知った。あとはガス燈を購入すれば部屋の雰囲気刷新が完成する。
 

西暦 17年10月23日 月曜日 小選挙区制を中選挙区制に戻そう 

 昨晩は、耳をつんざく暴風雨のなか、私の事務所で三人宴会が始まった。三人とは必殺料理人・長谷川氏、あわら市共産党市議・山川氏及び私。
  
 写真は、先日頂いた「純米大吟醸.・精米45%」である。つまみは長谷川・山川両氏の手作り煮物及びテレビ観戦で、観戦はボクサー村田の世界戦及び衆院選開票速報。
 
 福井一区、二区であれだけ物議をかもした自民党議員が、にも関わらず大差で当選してしまうのだから、福井に住むのがほとほと嫌になった。このうえは、余生の場を沖永良部島に移すことを検討しなければならない。
 ただ、 立憲民主党が大躍進しているのだけは評価したい。
 台風一過後、仕事の疲れを癒すためにGF(美人)と一緒に、珈琲を飲みに行った。さあ、又仕事を頑張ろう。

 西暦 17年10月22日 日曜日  しゃべり続けた昨日 

 昨日の午後はJR福井駅前のパピリンへ。そこで「佼成会福井教会 発足60周年祝賀会」が開かれ、あわら市明社会長の僕にも招待状が来た為である。祝賀会ではビールが出るのでJRを利用した。
 JR芦原温泉駅で某県会議員にでくわした。彼も佼成議員会会員なので行き先が同じだ。ケアされながらの同行となった。道中、「(リハビリのため5kgのダンベルを右足首にまいている)僕は「健常者であった頃は、障害者問題を単なる知識としてとらえるだけだったが、実際に身体障害者となってみると体感を通して深みと広がりを感受してくる云々」を熱意を込めてしゃべった。
 
 祝賀会会場には能舞台があって、来賓祝辞が終わってからは能の舞いだ。
 
 (見てもよしあしのわからない)僕は、ビールをしこたま飲みエビフライをしこたま食べながら隣席の人たちに対して、「10年ほど前に体験した幽体離脱」をしゃべっていた。
 
祝賀会終了後、あわら市長某氏に呼び止められて帰宅は車の人。あいにく越前市経由となったが、越前市・鯖江市には設計した建物が何件かある。
 あの頃はいろんなことがあったなあと思いながら、これからの人生は建築設計との心中である旨を語っていた。

西暦 17年10月20日 金曜日 週末がやってきた 
 「光陰矢の如し」とはよく言ったもので、又週末がやってきた。
 さて、この週末に私は変わる。即ち明日21日に下の抜け歯だらけゾーンに入歯がかぶさり上下総入歯人間となるのだ。これで、
 ①若い頃のような発音発語の明瞭さを取り戻せて、カラオケへ行っても自信をもって「港町ブルース」を歌うことができる。
 ②飲み会の時、皆とおなじように硬い食材をつまむことができる。
 ③(あるかないかわからないが)美しい女性(おなご)とのデートの時、若い頃と同じように熱情的な接吻が可能となる。
 ④なによりも、笑顔が素敵になる。
 クライマックスシリーズで阪神が負けたのは悔しいが、それはさておき、今は毎晩パリーグのチャンピオンシップ決定戦=ソフトバンクvs楽天のテレビ観戦を楽しんでいる。連日楽天が接戦をものにしているが、私は楽天の梨田監督の勝利の瞬間の笑顔を見るのが一番嬉しい。
 梨田は近鉄のキャッチャー時代に、「球界一のイケメン」と噂されていた。私が市議であった時「あわら市議一のイケメン」と噂されていたことに重なる。
 男の顔は生きてきた軌跡によってつくられるのである。

 西暦 17年10月18日 水曜日

 仏教を学ぶ(高戸甚右衛門)のデジタル化作業を終えた時、以前高戸氏から頂いた本を思い出した。
 
 高戸甚右エ門著「インダスの流れ」   著者・発刊に際して
 「私たちは、今恵まれた窮めて便利な生活をしている反面、おもいやりの心がすたれて、
「自分さえ良ければいい」という風潮がみなぎっているが、これは人間社会の貧困そのものではないだろうか。
戦後日本は立派な製品を安い価格で世界に売り出し、めざましい発展をとげているにもかかわらず、「国民そのものに欠陥がある」と米国ハーバード大学のエズラヴォーゲル教授が指摘された通り、日本的考えがどこでも通用するような錯覚が目立つのではないだろうか。毎年沢山の人が海外旅行すると聞くが、海外へ行くにはパスポートが必要でありこれには外務大臣が相手国に対して行路の安全を依頼する文面がついている。ところが日本人であるとの国家意識を持たず、そのような教育を受けず、国策を無視した言論が横行し外国のジャパンパッシングに同調するなど国益を考えない人々が大手を振って歩いている国から出ていくから冷や汗ものであり、一国の繁栄だけを願うものではなく、世界の平和と繁栄を願い、地球の保全と人類の進歩を考えるとき他国の事情を知り、理解することが大切である。
どの民族にも歴史と伝統があり、風俗、習慣、言語が異なるも、それぞれその環境で英知を重ねて生活がなされているのである。
 海外での生活を通して今改めて「豊かさ」とは何なのかと考えさせられるのである。
 二カ年のパキスタンでの生活と歴史の歴史を書きとどめたのは、帰国した昭和三十五年(一九八八)の暮れである。その後、会社に勤務し昭和六三年(一九八八)定年退職しても農業の傍ら公務を持ち多忙のため原稿を死蔵していたが七五才を迎え老人の郷愁から整理をすることにした。

 日進月歩は世の常。すでに四〇年を経て、かってのパキスタンは印パ戦争のあと一九七二年一月東パキスタンはバングラデシュとして分離独立し
今日に至っている。パキスタンに於いても首都が「カラチ」から「イスラマバード」に移り、パキスタンも近代国家として繁栄、進歩をしていることであろう。
 一九五九年「チッタゴン(東パ)」からカルカッタに入り領事館で聞いた「ダライラマ亡命」のビッグニュースも昨日のことのように思われ、カルカッタのハウラー駅からブツダガヤ、アグラ、デリー、アムリツアー(インド領)、ラホール(4パキスタン領)への汽車の旅もなつかしい。
ボンベイ、マドラス、スリランカのコロンボやベラデニヤ等も、TVで報道を聞く度に現地での思い出が四〇年前にタイムスリップして、脳裏をかすめる昨今である。  
            平成一二年三月
 
 西暦 17年10月17日 火曜日 無題
 昨日は錆びついたワイパーをペンキで再塗装。愛車は新品同様となった。
 
 西暦 17年10月16日 月曜日 妄想が進む  

  昨日の阪神vsDeNAの雨中決戦は滅茶苦茶で、僕は数十年前の高校野球甲子園大会準決勝・池田vs(わすれた)を思い出していた。

 結果はDeNA側の圧倒的勝利となりその意味では残念だったが、仮に阪神側勝利であったとしても、選手の力量による結果とはとても言えない。内野は泥水状態でゴロ打球は失速しそのことによってアウトのはずがセーフになってしまう。これでは投手内野手が可哀そうだ。
 
 高額をもらっている選手たちの義務は最高の技術を観客に見せることだ。あの試合をすべきではなかった。クライマックスシリーズの日程が立て込んでいるとしても、本日の試合をダブルヘッダーにすればよかったのだ。
 
 確かに
 人生は暴風雨のなかでも維持しなければならない。人生にサヨナラしてはいけない。
 だけどプロスポーツはそのような現実を一時的にでも忘れさせてくれる、砂漠の中のオアシスのような効果をもたらす。スポーツ観戦をレクレーションと言うが、レは「再び」でありクリエーションは「創造」である。その意味で競技の場は万全のものであって欲しかった。

 未消化の試合のせいか、布団の中で、自分が今わの際に居る夢を見せられた。
  西暦 17年10月15日 日曜日  

 周某柳著「蘇我の娘の古事記(ふることぶみ)」を読み終えた。
 西暦 17年10月14日 土曜日  

 どぶろく宴会は、午後六時半に我が事務所にてスタート。
 参加者は、70代男性三人・60代男性二人。
 
 西暦 17年10月13日 金曜日 無題  
 昨日の夕方に長谷川さん宅に行った。
 出来上がったどぶろくを試飲した。酒のカスをあっためて出来上がった甘酒を試飲した。
 
 さあ、今晩はどぶろく宴会となる。
  西暦 17年10月12日 木曜日  
 昨晩はというか昨日の草木も眠る丑三つ時には、NHK製作の北朝鮮世襲統治体制-金日成→金正日→金正恩を二時間にわたって見ていて思わず身震いした。金日成による朝鮮半島分断と北朝鮮立国は、まぎれもなく第二次世界大戦終結後の冷戦による産物であり金はスターリンに忠誠を誓う軍事顧問の手で王座の椅子に座らされたのだが、その後に起こった中ソ紛争で毛沢東側にもスターリン側にもつかず両者に上手くすり寄り国家運営の為のカネを引き出すことに成功し主体思想を確立して独裁政治のなかで自らの神格化に邁進した。この頃からその独裁政治をいさめようとする中ソに対して聞く耳を持たなくなり世界に類例のない世襲国家となったのである。
 少し前に読んだ強制収容所に関する本のなかで、収容した不満分子に対する扱いの非道さに読むのが辛くなった程だが、総書記というあらゆる政治権力を己れ一人に集中させた人間は周辺の傑物に対しては、今に自分を引きずり下ろすのではないかとの疑心暗鬼で獲るに足らない難癖をつけて例えば公開処刑の場に引きずり出すのである。
 私たちの住んでいる日本から最短の距離のところにこういう国があることに私たちが悲嘆するのは国民のコンセンサスと言えるだろうが、だからといって北朝鮮の核武装した軍事政権の脅威に対してアメリカとの共同歩調を唱える安倍内閣の態度が最善とは思えない。
 プエブロ号事件で恨みを持つアメリカとの戦争にでもなれば数週間で北朝鮮は崩壊するし、多数の避難民が日本に脱出してくる。たとえ局地戦でも死の灰が日本上空に流れてくる可能性がある。要するに外交交渉一筋であるべきだ。
 
 最近は世界各国で金正恩の私財を凍結する動きがあるそうだ。であれば彼の命運も長くはない。その時にやけになって核ボタンを押したら朝鮮半島ひいては東アジアは惨状のるつぼだ。
 ならば、日本国の獲るべき外交的立場は「金将軍、貴方様は引退してくださいませ。身の安全は保障しますからどこかの中立国に亡命してくださいませ」と奏上することも一案だと、台湾製「精譲陳紹」をしこたま飲んで、阿保頭になった僕は思うのである。
  西暦 17年10月8日 日曜日 はずきルーペをかけながら 
 選挙告示まで二日。福井一区からは、立憲民主党の立場で野田さんに出てほしいと思っていたし出ると思っていたが、その期待は見事に裏切られた。
 数日前の新聞一面に民進党・野田さんと山本代表が涙の記者会見に臨んでいる写真が出ていた。
 そうなのだ。政治の世界と男女の世界は一寸先が闇なのだ。

 個人的なことだが、20数年前に僕の友人が結婚した時、結婚式の司会を僕がやり、仲人を野田夫妻がやったことで知人となったという経緯がある。

 僕が立憲民主党を支持するのは、代表・枝野氏が「遠雷」で作家デビューした立松和平の宇都宮高校時代の後輩であり、二人の対談を文芸雑誌(だったと思う)で読んだ限りでは文学的といえるほどに彼の感性が繊細だと思えたことによる。げに、山崎行太郎が言うように「文学的でなけれが政治家になる資格がない」のである。
 出久根達郎著「涙のり舟を」を読み終えた。日本語の言質、リズムを発揮することに於いては、殆ど名人芸と思える著者のあとがきを紹介。

 品川沖で舟釣りをしていた者が、気がつくと風に流されている。漂流のすえ、島に。南米かどこかの島であろうか。とこわごわたずねると、「なにを言ってやがる。ここは佃島だ」
 とは古い笑話だが、東京の島で最も都心に近い小島である。
 現在は対岸と二百メートル余の橋で結ばれているが、東京オリンピックの年(昭和三十九年)以前は、渡船が運航していた。この渡船の歴史は古い。佃島の成立と共にある。大正十五年に東京市の経営に移る、と佃島の石碑に記されている。昭和二年に、蒸気の曳船(ひきぶね)の渡船に変るまで、三百年ほどは手漕(てこ)ぎの渡し船であった。
 落語の「佃祭」は、この渡し船が転覆する物語である。女にひきとめられて最終(しまい)舟に乗りそこねたために、一命を助かる。乗客は一人残らず、おぼれ死んだのである。
 私の小説では、八人乗りの渡し船を出したが、実際はもっと大きな船であったようだ。
 太田南畝(なんぼ)の「平日閑話」に、明和六年二月四日に佃島渡船転覆の記述があり、死者三十余人という。かなりの大船である。
 しかし、これは団体用の特別な舟ではあるまいか。臨時にしたてたものであって、日頃は平底の、十五人前後を乗せた舟でないか、と思われる。
 古川柳に「つく田へも 二人(ふた)りくらいは やく払」とあり、佃島の人口は多くない。おん(やく)払いましょう、目出たい文句を並べて銭を乞う厄払が、二人くらいは渡ってくる、というのだから、二人分の稼ぎにしかならぬ世帯数なのである。幕末ごろで、二百戸、大半が漁師で、渡し舟の利用者とて知れたものだろう。
 ついでだから、江戸川柳で渡し舟を詠んだものを、いくつかあげてみる。佃の渡しも、こんなようであったろう、と思うのである。
 「わたし守 毎日ひとつ(とこ)をこぎ」
 「旅芝居にわか渡しの込合(こみあい)で」
 「あぶなくも無いに船頭抱きたがり」(若い女性を見ると、舟の乗り降りに、やたら親切になる。船頭の役得(?)である)
 「渡し舟 一ト棹もどす知った人}
 「心よくのせると渡し沈む(なり)」(好意が仇になる伝で、定員オーバーである)
 「渡し守 目があぶないと笹をよけ」(笹竹を持った人が乗ったわけだが、川柳のむずかしさは、この笹竹の客が何者であるか、特定しないと面白みが半減する文芸なのである)
 渡し守の名だが、安藤鶴夫氏の文章では、代々、「(とき)」と呼ばれていたようである。
 「時蔵だか、時五郎だか、時助だか、時平だかわからないが、昔ツから、きまって、時やアーい、と呼んだ」(「佃島」)
 舩松町(現在の中央区湊町)側から、「時やアーい」と佃島に向って船頭を呼んだ。遅い時間で、渡しは終っている。特別に用立ててもらうのだから、むろんチップをはずむのである。
 私の小説も「時やアーい」でよかったのだが、お袋の名が「とき」なので、なんだか恥ずかしく、架空の名前にした。しかし正太という名に深い意味はない。正直者の太郎、といったほどである。 
 正太は幼なじみのみつと世帯を持った。やがて二人には子供が生まれるだろう。みつの気性では、子育ては上手でないかも知れない。隣のヨシ婆さんが、何かと面倒を見てくれるだろう。
 そうして人は老いてゆく。「毎日ひとつ(とこ)」をこいでいる渡し守だが、私たちの生活だって似たようなものだ。
 老いた正太は家業を息子に譲り、日なたぼっこしながら、小説本を読んでいることだろう。
 
 正太は本が好き、というわけでないが、若い時、日本橋の書物問屋に奉公したことがあるのだ。漠然と、本屋商売を夢見た時がある。それが一生を、渡し守で終ることになりそうだ。人生、意のままにならぬ。しかし正太は別に悔いているわけではない。
 おっと、口うるさいかみさんが、何やらどなっている。
 「本なんか読んだって、何の足しにもならねえ。住吉さまの境内で孫を遊ばせてきな」

 徳川吉宗の次男坊、田安宗武が、ある年の六月佃島にて詠んだ歌がある。
真帆(まほ)引きてよせくる舟に月照れり 楽しくぞあらむその舟人は」
               一九九六年五月               
                                出久根達郎
  西暦 17年10月7日 土曜日 

吉崎西別院責任役員僧侶から電話があって、「西別院の現場をみてほしい」と言われて、昨日の午後は雨中の西別院界隈を歩いていた。
駐車場正面に立つ念力門は歴史的にいわれがあって有名だ。

 吉崎別院は、文明年間 に本願寺の蓮如が北陸での布教活動の拠点として築かれたのに始まり、延宝年間に 東西に分れ、それぞれその麓に寺域を定め、今日に至っていいる。
念力門は本願寺吉崎別院の北門で、京都本願寺の北門を譲り受け、昭和24年に信徒らが荷車で運び再建されたもの。
 この門は本瓦葺、切妻造の主屋根から、背後の控柱の上方に小屋根がつく、いわゆる高麗門という形式。主柱間が約5メートル、主柱から背後の控柱間が3メートルで、高さは棟木まで6メートルほど。主柱は見付が65センチメートルもあり、上方の貫や木鼻、中備えの蟇股なども大振りです。2段の挿肘木で出桁を支え、主柱は棟木を直に受ける棟持柱であり、構造は簡素で、力強く、堂々としている。
 この門の前身である本願寺北門は、天正年間 に豊臣秀吉から寄進されたと伝わっている。蛤御門の変には焼失を免れ、本願寺の諸堂宇も被災を逃れたことから「火消門」や「火止門」とも呼ばれていた。しかし、現在の念力門の貫の絵様や木鼻の繰形、蟇股などの細部形式は近世初頭に遡るものではなく、江戸後期の様相を呈し、柱などの部材にも400年も経たような風食は認められない。ちなみに念力門の名称は西本願寺第23世勝如によって命名されたもの。


 西暦 17年10月6日 金曜日 無題 
このところ毎日のように悪夢にうなされて、寝覚めた時汗びっしょりである訳がわかった。
 深夜の二時ごろにユーチューブでドラマ・「推理サスペンス劇場」を観るのが定番となっており、繊細な神経が代名詞の僕は殺人犯へ感情移入してしまい、その結果として夢の中で逃げ回っている。刑事に徐々に追い詰められるに従って、罪の深さにおののき激しく悔恨するのである。
 ドラマは教条的で、殺人の動機は①カネ②オンナのどちらかであり、①カネに関しては元々縁がないので苦しめられようがないのだけれども、②オンナに関しては、この顔でありながら不思議にもてた。実生活のそういう体験が悪夢を呼んだのに間違いなく、「推理サスペンス劇場」観劇を止めた。そして安息な睡眠が戻って来た。心機一転だ。
そこで昨日の午後は、我が事務所で、三人による永井麟太郎短歌13首のセレクトに精を出していた。
元日にわれ着る和服は手をさけて まづ孫のため夜なべする妻 

妻よりも子よりも早く寝につくを すまぬと思ひつ床にもぐりぬ

水さらさら刈安川のみなもとは 神代ながらに水澄みに澄む

刈安の峠に立ちてひとまたぎ 越前越えて加賀を踏みたり

椎の実を拾はむとしていにしえの 歴史の貝殻ふめばもろしも

かまど焚く薪折るたび傷つきて 血はにじみたり祖母のみ手はも

腹にだく蟹の卵はさくさくと ふるさとの野の雪ふむ音す

蟹食へばふるさとの人なつかしく 古き手紙を読みかへすなり

山寺の尼僧が時を告げし鐘も たすきをかけて戦さに征きぬ

弟とたらの芽つみしことありぬ 千束へゆくここの林に

たらの芽の食べられること教へたる 弟死せり南の島に

北潟の湖よりとれし公魚を 食べ飽きるまで食べる楽しさ

ふるさとの社の裏の貝塚は 今も昔のままなるらんか


 西暦 17年10月5日 木曜日 

 議会報告会のご案内

 西暦 17年10月2日 月曜日 新しい一週間の始まり
 本日は、早朝にえち鉄ゆの町駅前へ。赤い羽根共同募金が始まり明社の立場での参加を要請された為である。募金の間、ずっと立ち続けていることが出来た。腰の痛みが減少しつつあるといえる。


募金が終わってからは、福井土木事務所へ。打合せの結果、厄介な問題解決のための目鼻立ちがついたので、ほっとした。外へ出ると土砂降りだ。

 西暦 17年10月1日 日曜日 無題  

 山口氏の陶芸展もきょうで終わった。作品群の横に立つ牧田氏の服装がとてもファッショナブル。


 Aキューブ出張中の山羊を見に行ってきた。小さな子供たちにとって、山羊は確かにいやしの対象となっている。それを見詰めている親たちのほほえましい横顔。俺の子供たちが小さい頃、同じような体験をしている。俺自身が小さかった頃、親は同じような眼で俺を見詰めていたに違いない。

 優れたアーテイストだったゴーギャンは、「人間は全て子に隷属している」と喝破しフランスの家族を残して、突然タヒチに脱出した。そして、あらゆるものから解放されたゴーギャンは絵と心中することができた。
過去日記