2011年10月

 
2011/10/30 (日) 無題


明け方、久しぶりにインターネットを検索していたら、このような記事にぶつかった。公人を裸にするのが週刊誌の趣味なのだろうが、公人の息子・娘への負の影響について週刊誌の編集長はどう思っているのだろうか。仕事と割り切ることによって不感症となっているのだろうか。


2011/10/29 (土) 快晴の土曜日


10月も終わろうとしている。
11月に入ると、先ずは2日の市議会臨時会。提出議案は次の通りです。

 議案第74号 専決処分の報告について
(損害賠償の額を定めることについて) 
 議案第75号  平成23年度あわら市一般会計補正予算(第3号)
 議案第76号  財産の取得について
(学校給食センター建設に係る用地取得)

 
2011/10/28 (金) 無題


この一週間、忙しさにかまけて日記を更新しなかった。
書かないのは楽なんだけれど、毎日忘れ物をしているような気分になる。駄文でもとにかく毎日書こうという気持ちが戻ってきた。


気がつけば、このHPのクリックカウントがΣ60万回を超えている。
忘れもしないが、Σ50万回目の日の朝、ぼくは脳内出血で倒れた。
その日予定されていた事務所でのパーテイは当然中止となった。
幽体離脱から始まり生死の境を超え医大病院での長期に渡るリハビリの間(かん)、病院を生活の場としている沢山のひとと知り合った。
この経験は、ぼくの人生観に大きな影響を与えた。エポックとも言える。


生きることは希望と絶望を(意識するしないにかかわらず)同時に受けることにほかならないと思う昨今です。


2011/10/25 (火) 無題




朝早く近所を歩いていたら、気になる建物が目に入った。
佇み、設計者の意図がどこにあったのかを、しばらくの間、考えていた。
2011/10/22 (土) 熱々珈琲を飲みながら


今週末の土曜日と日曜日はCADと格闘し、来週の月・火は「議会活性化特別委員会」の視察研修が予定されています。


2011/10/21 (金) 無題


昨日の午後は、坂井地区介護保険広域連合運営協議会が開かれた。ぼくは途中退出だったので協議の全体を知り得てはいない。後日広域連合に出向き、追跡補填するつもりだ。


ただ今、午前6時。数羽の鳥が既に明るくなった上空を飛び回っている。あの鳥たちの行く手にはなんの障害物もない。つまり自由ということだ。


2011/10/20 (木) きょうは忙しくなりそうだ


昨日
完成した拙宅の水道圧力検査に来たあわら市職員との間での雑談の話題となったこと。


公共下水道本管へは、汚水と家庭用雑排水を流し込まなければならない(事実殆どの家庭はそうしている)のだが、例えば裏庭に洗濯機を置いてその排水を雨水排水溝に流し込んでいる家庭が稀にあるそうだ。そうすれば、洗濯粉の成分が溝を汚しあるいは臭気を発生させ近隣に悪影響を与える。
毎月の下水道料金は、上水道料金によってカウントされるのだから、その面での整合性がなくなることも問題だ。


「役所というところは率先してことにあたろうとしない」と有権者住民からよく聞くが、ならば問題意識を持った住民が行政に言うなり議員に言うなりすることだ。
議員に存在価値があるとするならば、そんなことぐらいだろう。
2011/10/19 (水) 無題


昨日は健康長寿祭が開かれた。
いろんなイベントで司会やVIPが挨拶する言葉を聴きながら、最近のぼくは頭のなかでずっと手話通訳をし続けている。通訳しづらい言葉を耳にした時には、恥ずかしながら手を動かしてしまうこともある。
通訳力の向上あるいは呆け防止というのがその理由だ。
ついでに言えば、「通訳しやすい語り口は、論旨明瞭なわかりやすい語り口」であることを確認するためでもある。


人類の祖先がアフリカ大陸の峡谷で発生したのは約500万年前。その後進化を経てニグロイドは中央アジアにたどりつき、そこでコーカソイドやモンゴロイドやオーストラリアソイドなどの分派がつくられ、それぞれに大陸を北上したりアラスカへ渡ったりインド洋を航海したりして現在の住み分けの基礎がつくられた。
蒙古斑点をもつニグロイドの末裔の一部がこの日本列島に住み着いたのがいつごろかは知らないが、その後石器時代土器時代を経るのに幾星霜。
日本国家の形成過程は記紀によるしかないが、現在の天皇家の祖と言われる継体天皇はここ越前の出身で、それ故かぼくの横顔には憂愁がうかがえるとひとに時々言われる。


ということを書くのが本意ではなかった。
天皇家の始祖・天照大神を邪馬台国女王・卑弥呼に比定する説もあるが、邪馬台国を記す文献・魏志倭人伝は漢文であり、当然その頃は文字としての日本語は無かった。音声としての日本語があっただけだ。そこをずっとさかのぼれば音声言葉のない時代にたどりつく。


その時代のひとたちのコニュニケ手段はボデイランゲージだった。つまり現在の手話の始祖である。そして我々の体内には意識するにしろ意識しないにしろ、このDNAが受け継がれている。


かって手話を一生懸命ならっていた頃、通訳のベテラン先生が「言葉は嘘をつくけど体は正直」と言った。
ぼくの座右の銘となっている。


昨日いただいた某女性からの贈り物。



いろんな方の来訪や電話がありますが、ここ一週間はCADと引越しに忙殺される予定です。対応できなくてごめんなさい。


2011/10/18 (火) 無題


昨日は、あわら市税務課の職員三名が、竣工間近の拙宅を訪れた。勿論、固定資産税評価のためだ。
本日は県の竣工検査だし、この時期はすべてがあわただしい。このあわただしさは今月いっぱい続きそうだから、しばしの骨休みは来月に入るまでお預けとなりそう。


本日は金津地区の健康長寿祭がトリムパークで開かれる。
最近、祭りのかたちのマンネリ化が議員の間で言われているが、例えば成人式の企画構成が成人する若者の手に移ったように長寿祭の企画構成が高齢者自身の手に移れば、斬新な部分もみえてくるのではないか。


きのうはとても腹のたつことがあった。
もういなくなってしまった家族員あてに「なんとかカード」というものが届いたのだ。商売者は効率の観点から、無差別にそういう案内を出すのだろうが受け取る側はとてもおぞましい気持ちになる。
古典的な言い方になるのかもしれないが、「商売は、商売を通して売り手と買い手の心が交流することに意義がある」とぼくは思う。
それが逆に相手の気持ちを踏みにじることになるのは言語道断だ。


2011/10/17 (月) 昨日の日曜日


昨日はCADに専念するため事務所をロックしていたのだけれども、来訪者が4人。4人の内訳は①反原発ひとり①ドア修理の相談ひとり
①福祉相談ひとり①命の相談ひとり


三帖の事務所では快適な応対ができず、来訪者に申し訳ない。しかしこの状態もあと一週間だ。一週間すれば私は変わる。


午後6時にCADが完了し、台所へ行った。妻が県外へ出張しているので、烏賊フライをサカナにしてのひとり晩酌でテレビのスイッチを入れた。
ケーブルテレビなので沢山の番組があるが、勿論お笑いやグルメなどにはチャンネルを合わせない。ぼくが合わせるチャンネルは、大自然撮影番組、プロ野球阪神タイガースの試合中継、そして手話通訳付き番組だ。


漫然と画面を眺めているうちに眠たくなってきたので、寝室へ。布団に横たわっての最近の添い寝相手は、浅田次郎著・「終わらざる夏」。毎度のことだが浅田次郎からは凛とした気分をいただいている。


30代の終わりまでぼくは本の虫だった。40代、50代は殆ど読まなかった。60代になって、又本が好きになってきた。
人と疎遠の時本が身近にあり、本と疎遠の時人が身近にいる。
どうも、これがぼくの生き方のようだ。
2011/10/16 (日) 秋真っ只中





奥山に 紅葉ふみわけ 鳴く鹿の
        声聞くときぞ 秋はかなし     猿丸太夫



昨日、Nさんが越前柿を持ってきてくださった。
この秋の風物詩を眺めていたら、百人一首5番が頭に浮かんできた。


金津町の中山間地は、猪の出没によって畑の作物が荒らされる被害が年々出ている。この被害をくい止めるためかっては電気柵を講じたが効果が薄く、今では固定柵設置工事が進捗している。


固定柵の高さはGL+1.5mで、猪侵入防止としてはこれで充分だが、鹿となるとたやすく超えられてしまう。
ぼくも近年鹿との遭遇が三回あった。逃げ足の速さとジャンプ力は相当なもので、鹿が出没するようになったら、確かにこの程度の高さでは防御できないと思う。


猪にしろ鹿にしろ防御一点張りではなくて食肉化することを視野に入れるべきではないだろうか。
冬季捕獲以外の猪肉は脂がのっていなくてまずいとよく言われるが、それならば脂を補填することによって美味を引き出すことができるだろう。


本日は粗大ゴミ回収日。毎日ゴミを積んで走っているのですっかり汚くなってしまった軽自動車マイカーに粗大ゴミを積んで回収場所へ車を走らせた。
坂ノ下区の回収場所は建設が進行中の木村病院が、目と鼻の先にある。
待機中の坂ノ下理事たちと木村病院を話題にしばし歓談した。
そののち隠れ事務所に戻りCADに没頭。


2011/10/15 (土) 熱々珈琲を飲みながら


日本国憲法第9条の風化が進んでいる状況というべきか、野田総理は武器輸出3原則を緩和させる方向に舵をきっている。


武器輸出3原則は佐藤栄作首相のもとで
①共産圏諸国②国連決議が輸出を禁止した国③国際紛争当事者
には武器や関連技術の輸出を認めない、というもので、これは三木武夫首相の時に①②③以外の国にも輸出を禁止するということで事実上強化されたのにだ。


「戦争つまり人殺しをしない」は、世界大戦を経験した人類共通の理念であるはずなのに、戦争経済で成り立っている米の亜流を何故目指さなければならないのかさっぱりわからない。


2011/10/14 (金) 一行日記


パソコンデスクに座っている時間がなかなかとれないので・・・。
2011/10/13 (木) 本日は決算審査特別委員会


千束一里塚を出ると、字百本鳥・金ノ丸の畑地が続いて「字友平山」に出る。松蔽の長い山道を歩いてきた旅人には、心の弾む下り坂である。この辺りは郡内でも早くから開けた地域で、通称、稲荷山から向山にかけて、五世紀前期といわれる古墳群や古代住居跡・貝塚が確認されている。金津宿は今庄・府中・福井に並んで、北国路(北陸街道)の主要駅であった。駅馬30頭が割り当てられ、安永年間(一七七〇~)には宿問屋・旅籠屋が六十余軒、揚屋二十軒が立ち並んでいたというから、たいへんな賑わいであったのだろう。
友平山の裾へ下りたところが「大字坂ノ下」の北口、八幡神社の神域となる。
ここにきて漸く眺望が開ける。


天長(八二四~三三)の頃の創建といわれる総持寺や、浄土真宗の明善寺・願泉寺の大屋根が間近に見え、その奥に八日町・十日町と旅籠屋や揚屋の屋根が続く。坂を降りて町中に入る街道は、直角に折れて、東西に流れる竹田川に沿って長い家並みが続く。本陣・脇本陣をもつ宿場独特の町並みである。
やれやれと宿場到着を実感するのは、この友平山の裾「坂ノ下」で、次の宿場、長崎・船橋辺りまで足を伸ばす旅人も、ここに宿をとる旅人も、肌に風を入れ、名物茶屋で足を休める憩いの場であった。
一方、加賀・越中にむかって朝立ちをする下りの旅人にとっては、旅館の名残りを惜しむ「見返りの場」であり、山道にかかる「手向けの場」でもあった。
ここには八幡神社・観音堂・地蔵堂・不動明王堂・お題目塔・名号塔が寄り添うように立ち並んでいる。
山路を越えてきた旅人は、観音菩薩や地蔵尊に無事のよろこびを奉謝し、これから山路に向かう行人は、山路の平安を祈って幣を手向けたにちがいない。
ここは又、芦原・三国への追分口でもあった。
三国は、九頭竜川・日野川・足羽川・竹田川流域の物資の集散地で、北前船によって全国と交易する越前随一の港であったから、脇往還とはいえ重要な街道であった。八幡神社南側に百米ほどであるが昔のままの細道がのこされている。
應永年間(一三九四~一四二七)に勧請された八幡神社以外の堂塔は江戸中期から末期にかけての建立で、旅の歴史では伊勢神宮への「おかげ参り」や「金毘羅参り」が盛んに行われた頃に当たる。地域の人びとの信仰に根ざして造立されたのではあろうが、宗派を超えて寄りあっているのは、深い緑に蔽われた友平山が、神や仏をまつるに最もふさわしい聖地であったのかも知れない。
       「宿場史跡・金津町坂ノ下」(金津町教育委員会)より
   
 


2011/10/12 (水) 昨晩は鯖江往復で疲れた


昨日は、決算審査特別委員会が午前9時半から開かれた。
審査事項は、「議案第49号 平成22年度あわら市一般会計歳入歳出について」で、所管課は、総務課・政策課・監理課だった。いろんな質疑・意見が出たが、例えば某議員から男女雇用の機会均等についての質問があった。これは前々回の議会でぼくが一般質問したことでもあるので興味をもって聞いた。


某共産党議員・「市役所職員のうち女性が管理職(参事以上)に占める割合は?」
理事者・「全職員数274名のうち2名。現在の幹部級職員の夫婦関係は旧弊にしばられている部分があるが、今の若い女性職員たちは違う。ものおじせず意見をしっかりと言うひとたちが多い。ここ5年10年の間に急激に変わっていくだろう」


委員会は午後5時半に終了。


暫時休憩の合間合間に携帯電話の着信記録をみると、電話が賓回に入ってきている。携帯電話は確かに便利だ。固定電話では不可能な即時的双方向情報交換の世界をもたらした。


しかし、とぼくは一方で思う。
・携帯電話の普及がもたらした負の面は、いつでもどこでも自分が追いかけられているような気分になること。
・「待つことで、いろいろ考えること」の面白さを奪われたこと。


つまり社会がハイテク化されることによって違和感を感じるひとたちも多いだろうということ。

とんぼさんは稀有のひとだ。
大学のボート部で鍛えた膂力でプロの料理人となり、多くの図書館を渡り歩く読書のひと。かつ市政掲示板でもおなじみの文章のひと。
今朝も仲士石碑と杉田鶉山の関係の多くの資料を携えてぼくの隠れ事務所にやってきた。そこへ「ふるさと語ろう会」のY会長がやってきてそのあと年増女がやってきたので、三畳+αの隠れ事務所では応対しきれない。仕方なく外へ椅子を出しての歓談となった。


知力のひと・とんぼさんは決して偉ぶらない。ぼくたち庶民とも対等に接してくれる。


22011/10/10 (月) 連休最終日


三連休もきょうが最終日。
とは言っても、どこへ出かけるということもなく誰とも会わずひたすら隠れ事務所でCADに邁進する三日間だった。


連休が明けると、例えば決算審査特別委.議会活性化特別委.視察研修などの予定が目白押し。個人的なことを付け加えるならば引越しに伴うゴタゴタも待っている。


忙しいということは諸刃の剣だ。
利点は
時間に追われるので、余計なことを考えなくて済む。
欠点は
一杯程度のコップ酒すら、美味しく味わえない。


ということで、議員報酬について考えた。
昔、三国町の知人から「牧田はん、議員は報酬以上の仕事をするべきじゃないよ」と言われた。確かに費用対効果の観点からそれは言えるのだが、そもそも議員の仕事vs仕事外の線引きをどこでしたらいいのかよくわからない。
旧金津町時代に某議員が、(一般質問だったかな?)年間に議会の開かれるトータル時間や委員会の開かれるトータル時間の合計×時間当たり報酬額を計算して、もっと下げるべしと叫んでいたが、むしろ役所へ出る以前での諸々が多いようにぼくには思える。


個人的な考えだが、報酬云々よりも政務調査費については、たとえ¥一万であったとしてもあったほうが議会活性化に結びつくと思う。


2011/10/09 (日) 青楼無縁塚



昨日の日記に書いたダンボール箱から「宿場史跡・金津町坂ノ下」(金津町教育委員会)が出てきた。
以下、一部を抜粋。


姫川の 俤ゆかし枯柳



          青楼無縁塚
 不老庵寿山


宿場小女郎が旅人の袖を引いた遊里は、竹田川を挟んだ長さ一キロ余りの町の川北、北金津といわれた宿場集落にあった。金津領村鏡によると、安永二年当時、北金津は、戸数四一一、人数一三九四、(男七二八・女六六六)。遊女が六一名も居たのだから、女性の数が多いのかと 思ったら、逆に五二名少ない・・・・・
遊里は、その北金津町の三丈山を取り巻いている旧金津町一帯にあった。金津町郷土資料は、次のように記している。


当時稲荷山の地には二十余軒の妓楼が軒を連ね数十名の娼婦が居って我先にと客をよんだ。したがって階上階下の別なく、三弦の音、太鼓のひびきやかましく稲荷山にこだましていたという・・・・「青楼川」(津谷博子)
・・・・観音堂横に、二つの大きな名号塔に挟まれて、「青楼無縁塚」の碑があります。金津宿の殷賑をきわめた遊女街の存在を形の上で残すのは、哀切な碑文をもつ丈一メートルほどのこの笏谷石よりほかにはないようです。碑の前方に小さな地蔵堂があり・・・・
                 「一里塚のある道」(山口政枝) 


ぼくは郷土史が大好きだ。現在我々が住んでいるこの土地には地霊が宿っていると思うからだ。
「人類発祥以来、酒と売春と音楽が男の楽しみだった」と、ぼくの友人は語った。小説家・五木寛之はTVで「よる年波で性力を喪失した男に生きる意味はない」と語っていた。
そうすると、ぼくにはかすかながら存在意義があることになる。
  

2011/10/08 (土) 土曜日の昼下がり


本日は、早朝からCADに専念中。


とは言うものの合間合間で引越しの為の本整理をしていたら、ダンボール箱から、小冊子=杉原著・「敦賀の遊郭について」が出てきた。


万葉集4108
里人の 見る目はづかし 左夫流児に
     惑わす君が 宮出後ぶり

と文中にある。


港港に女あり、と言われた程に港町は遊女で栄えた。ぼくにとって第二のふるさとである敦賀も勿論例外ではない。
浅田次郎の島原遊郭ものを読んで思ったのだが、遊郭は歴史の交差点だ。

2011/10/07(金) 坂井地区介護保険広域連合主催・講演会


昨日の午後1時半からタイトル・「介護保険の現在と未来」の講演会が開かれた。講師は地域ケアネットワーク研究主幹・池田省三氏。


イントロで、「カール・マルクスは、地獄への道は善意で敷き詰められていると書いた」と言ったので、「へえ?」と思った。


「みのもんたは現在の介護保険制度の矛盾を全然知らない。誤った意識を国民にうえつけている」と次に言った。
「まちの水道工事屋の社長をやり続けているほうが、ずっと誠実で実のある人生だったはずなのに、どうしてあんな虚業世界でふんぞり返ってしゃべっているんだろう?」と思っているぼくは愉快になった。


「日本の介護保険の贅沢度は突出して世界一。要支援で給付しているのは北欧を除けば日本だけだ。これは福祉制度の充実ということではない。介護保険制度は互助制度であって福祉とは無関係」とも言った。


いろんなことをしゃべったが、最後に「私は癌(レベル4)でもうすぐ逝く身。よってしゃべることになんの憚りもない」と言ったのが印象に残る。というか共感する。


2011/10/06 (木) 昨日は決算審査特別委員会


昨日は、決算審査特別委員会が開かれた。


決算審査特別委員会に関して思い出すのは三年前の十月。
第一回目の決算審査委員会を終えた数日後にぼくは脳内出血で倒れ、生死の境をさまよった。縁あって現世に復帰し、長期入院を余儀なくされた。リハビリに励みはしたが、しかし今も多少のマヒは残っている。とまれ、ああいう極限を体験すると人生観がどうしても変わってしまう。


どう変わったのかを整合だてて書くだけの筆力がぼくにはないけれども、おおざっぱに言えば、日々が美空ひばり・「川の流れのように」となった。


     付記 決算審査特別委員会審査日程
 月日  部  課
 10月5日(水)  財政部 財政課・税務課・収納推進課 
 10月11日(火)  総務部  総務課・政策課・監理課
 10月13日(木)  教育委員会  教育総務課(給食センター)・文化学習課・スポーツ課
 10月14日(金)  経済産業部  農林水産課・観光商工課
     会計課・監査委員事務局・議会事務局
 10月20日(木)  土木部  芦原温泉財産区・建設課・上下水道課
 10月21日(金)  市民福祉部  市民生活課・福祉課・子育て支援課・健康長寿課
  11月1日(火)  総括  


2011/10/05 (水) 高椋家住宅


昨日の午前中は、広報編集特別委員会が開かれた。
委員会は午前中で終わり午後は10人程で坂井市丸岡町の高椋家へ。


高椋家は丸岡藩主有馬氏に代々組頭として大庄屋として仕えてきた。



第34代当主の奥さんは顔立ちや言葉使いや立居振る舞いにさすが気品がある。私のようだ。


しかし江戸末期には百姓一揆にも襲われた。考えてみれば高椋家は上司の有馬氏の手足とさせられ、百姓たちからは搾取の手先としてにらまれ、いわば中間構造体として辛酸をなめたようだ。


勿論、「ふるさと語ろう会」の中島道子顧問にもご足労いただいた。





2011/10/04 (火) 本日は広報編集特別委員会


昨日の午前中は、議会活性化特別委員会。検討事項は、第8章議員の身分・待遇・政治倫理(議員定数)(議員報酬)(議員の政治倫理)第9章最高規範性及び見直し手続き(最高規範性)(議会及び議員の責務)(見直し手続き)。


全ての章のなかの条項についてのおおまかな検討は、いちおう昨日で終わったのだけれども、詰めはむしろこれから。
今月の24、25日には先進地事例研修として、京丹後市議会と伊賀市議会へ行く。その視察研修を受けて11月には三回の議会活性化委員会を開く。


夜。
妻と一緒に完成間近の自宅内部に入る。懐中電灯に和室が照らし出された時、「障子の桟のデザインが素晴らしい」とぼくを誉める。滅多に誉められることがないぼくは欣喜雀躍。


「覆水盆に戻らず」ということわざがあるが、夫婦の場合は「覆水盆に戻そうぜ」だ。
育った環境や時代の違うふたりが共同生活を始めるのが結婚。当然、「こんなはずではなかった」の連続だ。覆水となるが、その都度盆に戻らなかったら離婚再婚の繰り返しとなってしまう(その方が楽しい人生だという考え方もあるのだが・・)。
よって「覆水盆に戻そうぜ」だ。

2011/10/03 (月) 昨日はあわら市民体育祭


昨日はトリムパークにおいて、あわら市民体育祭が開かれた。
開会式が終わる頃に、ポチポチと小雨が落ち始め、「ああ・・今年も昨年に引き続いて途中中止となるのか」と思ったが、その後天候は回復し競技は予定どおり全種目消化された。


大会代表や来賓代表が天候を気にして挨拶を短時間で切り上げたのはまことによかった。
「挨拶」は禅用語。挨は「おす」を意味し、拶は「ひく」を意味するのである。即ちシンプル イズ ザ ベストなのであって、きのきいた言葉ひとつを発すればそれで充分だ。


2011/10/02 (日) 日曜日の朝


久しぶりに予定のなかった昨日は、図書館に行って本を物色していた。
稲田朋美著・「百人切りから南京へ」(文言春秋)が目に入った。福井では有名人であり、ある種の会合ではいつも顔を拝見し弁舌を聞いているので、その本を借りて就寝までに読み終えた。


「百人切り・南京大虐殺」は、日本軍の悪逆非道の典型として江沢民政権下の中国で喧伝されてきたものだ。70年代に鈴木明著・『「南京大虐殺」のまぼろし』を読んで、その報道に虚偽を感じたのは確かだがその前後、ぼくはバイト先の淡路島国民宿舎で、元日本軍兵士から「わしは四人チャンコロ捕虜を試し切りで殺した」と聞いていた。
その元兵士がいかにも人のよさそうなおじさんだったので、ぼくは「人の心には必ず狂気が潜んでおり、戦争という極限時には狂気が前面に出る瞬間がある」と思ったものだ。


しかしそれはそれとして、稲田さんの本に書かれている100人切りと名指しされ死刑となった元日本軍の三人の兵士あるいはその遺族たちの苦しみ・悲しみを思うと、言う言葉がなくなる。
そして捏造記事を出した毎日新聞社や本多勝一さんの「中国の旅」をバックアップした朝日新聞社に対して、社会の木鐸たる資格なしと強く思う。


ぼくは稲田さんが言うような「立派な皇軍」とか「美しい日本の伝統」とかいう言葉にそんなに惹かれはしないし、「人間みんなぼちぼち」と思うだけなんだけれども、とにかくそう感じる。


2011/10/01 (土) きょうから10月


昨日の午後は突然の来訪者Aさんと長時間の対談に追われた。


Aさんは、庶民というより利他の精神で精力的に環境保護などに関っている知識人タイプで、我々議員の愚鈍さを攻撃し返す刀で行政職員の優柔不断さをついて帰っていった。


人間はおおまかに言って四つのタイプに分けることができる。


①自分にあまく他人にあまいタイプ。
②自分にあまく他人に厳しいタイプ。
③自分に厳しく他人にあまいタイプ。
④自分に厳しく他人に厳しいヤイプ。


ぼくはタイプ③を目指しているのだが、今のところはタイプ①だろう。翻ってAさんは典型的なタイプ④だった。



タイプに好きも嫌いもないのだが、理屈好きのひとには妙に説得力がある。具体邸に指摘した何点かについては共感したし、ぼくも「行動のひと」とならねば、と思った。