通夜や葬儀に出るたび、坊さんの読みあげるお経の意味がわからないので「お経を漢語読みではなく日本語読みに何故しないのだろうか」というのがぼくの永年の疑問であり続けているのだけれど、昨日午前中に開かれた金津神社例大祭で、神主が奏上する祝詞が、(当然)日本語であるにも関わらずやっぱりよくわからない。
古代日本語であるからわかりづらいのであれば、現代日本語に翻訳したものを奏上するのが親切というものではないかと思うのだけれども、「いやいやお経にしろ祝詞にしろ、よくわからないからこそありがたみを感じることができるのです」という反論が聞こえてきそうだ。
しかしそれは詭弁だ。
日本人にとって、神教と仏教は二大宗教であり、習合化してもいる。
ならば、我々衆生の民にその教義をわかりやすく伝えることは、時代時代にマッチした言語の登用が不可欠であると思う。
何故そんなことを思ったかというと
昨晩開かれた手話サークルで、「伝統的手話と日本語対応手話のそれぞれの特徴」が話のテーマとなったからだ。 |
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