本日の福井新聞16面に、見出し「宗教文化で誘客を」が載っていた。
記事を模写すると
「福井、石川県の宗教文化を連携させて観光振興を目指す「越前加賀宗教文化街道」構想。その提唱者である石川県加賀市の寺前秀一市長が、このほど出版した著書で、首都圏の団塊世代をターゲットにした誘客戦略を披露している。
寺前市長は1949年加賀市に生まれ、運輸省、国道交通省、日本観光協会理事長、高崎経済大学教授などを経て、2009年から現職。観光学博士で、観光に関する著書も多い。
「越前加賀宗教文化街道~祈りの道~」は、あわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町が、11年に推進協議会を創設。吉崎御坊や永平寺、平泉寺白山神社などを生かした観光ルートの商品化を目指している。
寺前市長は新刊で、死が身近になる団塊の世代が興味を引く「死生観」に着目。14年年度の北陸新幹線の金沢開業を見据え、越前・加賀に存在する白山信仰や一向一揆、禅といった宗教文化をつなぐ物語をつくり、共同観光プロモーションを展開すべきとしている。
モデルとするのは南ドイツを縦断するロマンチック街道で、同街道のようなネーミングが成功の鍵と指摘。ルターの宗教改革のように、中世、中世日本の宗教文化を主要テーマに据えれば世界にアピールできると述べている。
また、団塊の世代は全共闘世代である点に注目。一向一揆が大名の介在を防ぎ「百姓の持ちたる国」を築いたというイメージを観光資源として利用すべきと提案する。報恩講や精進料理といったヘルシーな食文化もセールスポイントに挙げている。
寺前市長は「新幹線開業に向け、首都圏の成熟世代に照準を合わせ、ルート化を図りたい。越前と加賀がお互いに補い合い、宿泊にまで結びつくビジネスモデルをつくる必要がある」と話している。
新刊は「観光学博士の市長実践記~クール加賀三百万人構想~」のタイトルで、システムオリジン(静岡市)の発行。2800円。」
別に新刊の宣伝をするために模写したわけではないし、私は読む本の全てを図書館に頼っているので、機会があったら借りてこようと思う。
寺前市長の肉声を聞いたのは2年ほど前。蓮如上人記念館にあわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町の市長等が集まった時のパネラーのひとりがこの人だった。1949年生まれというから、私と同い年で、文中にあるように「団塊の世代で全共闘世代」であることも共通する。
もしかしたら生き方よりも死に方のほうにより強く惹かれているのかもしれないし、だとしたらウマが合うかもしれないと思った。
付記
確かに、越前金津の領主だった溝江氏は、加賀から攻めてきた一向一揆の手によって滅んだ。そして一揆の本陣が、自宅の近所の総持寺であることも、歴史の栄枯盛衰を私に強く感じさせる。
参考文献(福井新聞より)
妙隆寺住職 児玉常聖(あわら市)
一族の子々孫々 全国に
武将たちの鎮魂
関ケ原で領地を没収された溝江氏四代目、長晴(ながはる)の浪人生活は28年にも及びました。しかし、寛永5(1628)年、彦根藩主二代目、井伊直孝の時代に仕官が許され、禄(ろく)五百石で藩士となります。46歳(推定)になってようやく、安住の地を得たのです。
井伊家は、「安政の大獄」で有名な井伊直弼(なおすけ)をはじめ、幕末まで大老職を5人も出すなど「常溜(つねどまり)」と呼ばれた特別な大名で、参勤交代を免除されるなど幕閣の中でも名門中の名門です。初代藩主、井伊直政と溝江三代、長氏(ながうじ)が縁があったことから、長晴は生活に窮しながらも「井伊家こそが頼みの綱」と己の立ち位置を敏感にかぎ取っていたのかも知れません。
溝江氏の子孫たちでつくる「全国溝江氏々族会」が10年前に刊行した戦国溝江四代を主とした資料集
正保3(1646)年、長晴は彦根で亡くなりました。しかし、晩年、彦根藩士として生き延びたことは、溝江一族にとっては大変意義深いことでした。
なぜなら…長晴の子や孫らは、現代にまで末裔(まつえい)を多く残すことになったからです。その系統は、彦根藩の本家をはじめ津軽弘前藩、仙台伊達藩、福井藩本多家中、播州龍野藩、出雲松江藩、四国宇和島藩、久留米藩と全国に広がり、一族の血は嫡流、分家と絶えることなく幕末、明治、そして現代と受け継がれたのです。
平成6年5月、東京に住む彦根溝江の子孫の溝江伸康さん(89)の呼び掛けで結成された溝江一族の会「全国溝江氏々族会」の会員30人余りが、溝江発祥の地、金津を訪れました。一行は溝江館跡などを見学し、芦原温泉で親交を温めたのです。さらに、先祖の歴史を埋もれさせてはいけない-と一族の史料集を刊行しました。
思えば、私は昭和47(1972)年11月に、溝江初代景逸(かげやす)と二代長逸(ながやす)の墓前祭にかかわったことから、妙隆寺の住職を継いだわけですが、当時は、長氏や長晴に関する史料が全く無く、私は自分の祈り事に迷いを感じていました。
それが、子孫の方々とかかわりを持つことで、数多くの史料や品々が彦根に残されていたことを知りました。それらの存在によって、戦国の溝江四代が、いかに乱世をくぐり抜けてきたか、浮沈(まるでジェットコースターのような)を繰り返してきたか-を知ることになりました。つまり、菩提(ぼだい)寺住職として、鎮魂の対象をしっかりとつかむことができたわけです。
金津の町の礎を築いた溝江氏の歴史は、私の寺院にとってだけでなく、越前福井の歴史にとっても貴重なものです。さらに溝江一族が、水路開削、導水の優れた職能集団であったことが証明されれば、継体天皇の“越前王権”の研究にも大きく貢献するやも知れません。
私は歴史の専門家ではありませんが、地元金津町の郷土研究、歴史家の諸先輩の思いに導かれ、こうして溝江氏の歴史の一端を記すことができたことは、望外の喜びであります。(溝江家菩提寺、妙隆寺住職) =おわり=
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なお、この連載執筆に当たり、以下の文献を参考にさせていただきました。「越前金津城主溝江家」「金津ふる里の手帖」「越前金津の史話と伝説」「古代の製鉄遺跡」「越前朝倉氏の研究」「越前朝倉一族」
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