2013年01月(1)

1日ー10日(1)  11日ー20日(2) 21日ー31日(3) 

 
2013/01/10 (木) 昨晩


昨夕は、ホテルフジタで連合福井の旗開き。


終了後、直ちに事務所へ戻った。



夜、事務所で開かれた「原発を考える会・打合せ会」に、Nさんが壺井明さんの大作「無主物」のコピーを持って来た。


・「無主物」というタイトルについての作者の弁
昨年8月、二本松市の「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」が、東京電力に芝生に付着した放射性物質を除去するよう求めた訴えがあった。東電側の弁護士が「それはもう自分たちのもとから離れて芝生にくっついちゃっているから、それは自分たちのものではなく≪無主物≫である」と言った。だけどその汚染は福島第一原発の爆発がなければ無かったものだから、ものすごく無責任だと思った。そのことに怒りを覚え、この絵を描き始めた。


・作品についての作者の弁
三枚の絵でひとつの作品になっている。右は、3月11日の事故以前からずっと続いている、被爆労働をする従業員の方々とそこから得る利益を独占している人々の關係を描いている。中央と左は、3月11日の事故以後、被爆してしまったさまざまな人や動物に対してそうしたらいいのか、疎開についてどうしたらいいのか思案する中、「こうあってほしい」という願いのようなものも含めて描いた。

2013/01/09 (水)  比較的暖かい日が続いている


いろんなことがあって、ここ数年間、人と顔を合わせるのが嫌になり人前でしゃべるのが嫌になりとにかく人を遠ざけたい生活が続いた。


だけど、 咳をしても一人(尾崎放哉)のような生き方は所詮我々凡人には無理であることもわかっているし、強い意志力の人であってこそ、孤独の極限を句にすることができるのだろう。


今年下半期からの生活がどうなるのか、ある程度目標を持ってはいるが、可能かどうかやってみなければわからない。言えることは、できるだけ「悔いのないものにせねば」である。


午前中、三国土木事務所へ行った帰りにN氏宅へ寄った。N氏は僕が金津中学校PTA会長だった時の校長で、その20年前の話で盛り上がり、時間はどんどん過ぎていった。しかし歳月とは恐ろしいもので、今は少し耳が遠くなっているそうだ。
「僕も体のあちこちがおかしくなって・・」と申し上げたら、「牧田さんは、私より13歳も若いんだからまだまだこれからですよ」と、励まされてしまった。


2013/01/08 (火)  無題


「声の広場・NO450」を読んで恐縮しています。


本日は、福井2区の市議5人がそろって新年の挨拶のために連合福井本部へ。別れ際に会長から、「牧田さん、お体を大切に・・」と言われ、「私の体を心配してくれるのは、女性達だけではなかったのだ」と認識した。


そして、それがとても嬉しかった。

2013/01/07 (月)  新しい週の始まり


ザ・タイガースが再結成されるそうだ!


はるか昔の友達にKさんがいた。この女性は日本共産党前中央委員会議長・不破哲三とザ・タイガースリードボーカル沢田研二(愛称ジュリー)の熱烈なファンで、二人に対していわゆる「追っかけ」をやっていた。その彼女が京都市内のジュリー宅を訪ねた時の思い出を、ある時僕に語った。


「ねえ、牧田くん。ジュリーの魅力は単にアイドルだからじゃない。彼は私たち三人を応接間に招いて障害者の妹を紹介し、こう言ったのよ。
・・俺はスターだからプライバシーをどうあばかれようと構わない。だけど妹のことはそっとしておいてほしい・・。そう言った時の彼の横顔は誰よりも誰よりも素敵だったわ」と、語った。



昨日は坂ノ下区の総会が開かれ、その総会の席で僕は挨拶をさせていただいた。


「今年の6月にはあわら市の市議会議員選挙が控えています。私は、みなさんの御支援で金津町議2期、あわら市議2期の計4期を勤めさせていただきました。しかしながら、今年6月で辞めたいと思います。
これは随分前から考えていたことで、理由は幾つかあります。」等々をしゃべった。


そして
「議員在職中は、本当に長いあいだ、どうもありがとうございました。今後ともお付き合いのほど、よろしくお願い致します。」と結んだ。


下の写真は総会後の親睦飲み会の風景



金粉入りの清酒はさすがに美味しい。


2013/01/06 (日) 今年初の日曜日


「半死半生」を辞書で引くと「半ば死に、半ば生きている状態。死にかかっていること。生死の境にいること。」と書いてあるが、僕の場合はちょっと違って、そういう体の問題ではなくて、なんというか、人生観を表す言葉だと理解している。


体が健康であろうが衰弱していようが、ある瞬間に死の影をみることがあるのが普通の人間だ。勿論これは数年前に幽体離脱を経験したからより強く思うのだろうが、その経験の有無は相対的な差にすぎず、だって、例えば一神教の宗教の場合、現世を神との契約の下に生きている。そして神との契約が生きる規範・つまりは道徳となっている。


10数年前、我が家にホームステイした女性は、「ソ連が共産主義国家であった時代にも、宗教は(この場合はロシア正教か)半ば隠れる形で続いていた」と、言っていた。


僕は何かの宗教を強く信じているわけではない(というよりも信じるということがどういう心的状態を指すのかよくわからない)が、霊魂の不滅を経験的に信じているので、一応、宗教的人間の範疇に入ると思う。


形見とて何か残さん 春は花
     山ほととぎす 秋はもみじ葉
  良寛


2013/01/05 (土) 尖閣諸島について

私に次の文章がファックスされてきた。発信先は「サポートN」・・どういう団体か知らないが井沢元彦の文章の要約なので、紙データを電子データに変換してブログに取り上げた。


「1970年以前に中華人民共和国で教育を受けた方は、自分が学校で受けた地理の教科書、あるいは「世界地図帳」(北京市地図出版社発行)をご覧になってください。実は中国政府は、今これを次々と処分しています。


しかし学校生活の思い出として今でも保有している方は、恐らく数千万人いるでしょう。全部が処分できるものではありいません。それをご覧になってください。


その地図は島名が「魚釣島」と表記され日本領に区分されています。中国名の「魚釣島」ではありません。少なくとも1970年代に入るまで、中国政府は国家が作った教科書で尖閣諸島は日本の領域内だと認めていたのです。証拠は他にもあります。


例えば1953年1月8日付の人民日報です。人民日報とはもちろん中国共産党の機関紙です。その機関紙の表現にきちんと「日本国尖閣諸島」とあそんなります。それなのに中国はなぜ自分の国の物だと主張するのでしょうか。それは膨大な石油資源が見つかったからなのです。


中国のいうことは全くのでたらめであり、真相は中国の方が後から自分のものと言い出したのです。かって尖閣諸島のうち、魚釣島、久場島、南小島(行政区分では古賀村と称した)には鰹節工場があり、1907年には99個、248人の日本人が住んでいました。


その鰹節工場の採算が取れなくなったため、島民である日本人は一時撤収、誰も住まなくなりましたが、ずっと保有はしていたのです。


共産党一党独裁制の中国では政府の見解に逆らうことは公の放送や新聞では口にできません。2011年7月23日の中国新幹線の大事故を想い出してください。まだ犠牲者が中にいるかもしれない車両を人々の見ている前で土の中に埋めてしまいました。


先進国ではこんなことは絶対にありません。これをとっても政府が国民に対して本当のことを言っていると思われません。すべてがでたらめではないのですが、この尖閣諸島に関する報道は全てでたらめと言っていいでしょう。


中国の発表は嘘で、実は中国共産党も尖閣諸島は日本領だと認めていたとの証拠が中国全土に溢れている。調べればすぐにわかるような嘘をついて人を誘導しようとする人間はその人を馬鹿にしていることになります。そんなことはばれないと高をくっているいうことですから中国政府および中国共産党こそ世界で一番中国人民を馬鹿にしている組織です。


この9月18日は満州事変の81年目の記念日でした。確かに過去の日本の侵略行為というものは、中国に対する大悪行です。これは日本人の一人として私はきちんと認めます。それ以後日中平和条約を結び、過去のことを結び、過去のことを反省し膨大なODA援助を中国に与えているのです。


中国の主な空港、港湾、駅などで日本のODA資金が使われています。しかし中国共産党は歴史上一番多くの中国人を殺したのは毛沢東でしょう。大躍進政策の失敗で数千万人、文化大革命で数百万人。このことも中国国内の歴史教育では教えられていないが中国以外の国家では世界史の常識です。


しかもこの毛沢東主義(マオイズム)は世界に輸出され、カンボジアでは共産党によって総人口800万人のうち、200万人が殺されました。にもかかわらず天安門広場には彼の肖像画がまだ飾られている。


有史以来、中国人民を一番多く虐殺したのは、中国共産党なのです。普通そうした政権は革命によって滅ぼされ、新しい民主主義が力を握ります。しかしながら、かって自国数千万人を殺した政党と同じ政党が未だに権力を握り続けているのは、人類史上中国だけなのです。


もし本当に、中国人の貴方方が自分たちの国を世界に誇る一流国家にしたいのなら、まずここを改革すべきではありませんか?現にあの反日デモの中で、毛沢東の肖像を掲げた若者は、数千万人が彼によって殺され、それを上回る中国人民が下僕という奴隷労働の苦しみにあったことを知ってやっているのでしょうか。


恐らく知らないと思います。それは大変恐ろしいことではありませんか。以上です。堂々と自分の意見を述べる井沢氏には感服します。」
きょうの午前中に友人・A氏が来訪。私のFacebookをつくってくれました。暇な折に覗いてください。


2013/01/04 (金) 本日は広報編集特別委員会

一昨日の晩、僕はテレビで「ニチボウ貝塚・東京五輪でのソ連との死闘」を見ていた。


1964年10月、僕が高一の時に東京五輪が開かれた。
僕は、男子マラソンのアベベや円谷、男子100mのヘイズ、女子80m障害の依田郁子、男子体操の遠藤、女子砲丸投げのタマラ・プレス、水泳男子自由形のドン・ショランダー、女子体操のチャスラフスカらの活躍に熱狂したが、不思議と女子バレーには興味がなくて中継を見なかった。


あれから幾星霜、10年くらい前だったか議員の視察研修地として大阪府南部にある貝塚市を訪れ、「東洋の魔女たちは、この地で回転レシーブに励んでいたのか・・」と思った時、彼女たちに対する敬愛の念が初めて湧き上がった。そして、一昨日晩のテレビの一部始終を、改めて感激のおももちで見ていた。


ところで・・
彼女たちを率いた「鬼の大松」は57歳でこの世を旅立った。「偉業を成し遂げたひとは早世する」という警句がこの場合もあてはまっている。

「市政掲示板」no448に、とんぼさんからの以下のような書き込みがありました。
448.歳月人を待たず。  
名前:とんぼ    日付:12月31日(月) 11時41分
年齢を重ねるごとに一年々が短くなる。若くはない身、のんびりと過ごしたいと思うのだが、無論許されるはずはない。生きるためには来年もあくせくと働かねばならない。

 同時に夢を成就させたい。それは小説を書きあげること。笑われるかもしれないが、賞にも戦する、それが夢。歳月人を待たず、残された時間は多くはないだろう。夢に専念したい。

 というわけで、掲示板から退場することを決めました。長い間ありがとうございました。

 来年はみなさんにとって良い年でありますように。
 


そこで、表紙のスタイルを変更します。



元旦午前零時に金津神社で初参りをした時、参道の両脇に設置された篝火に僕は魅せられた。





懸命に光っているせいぜい数時間の篝火は美しくそして物悲しい。人間の生の賛歌であると同時に生きていることの悲しみを表現していると思った。

2013/01/03 (木) 松の内気分ははや抜けて


昨夕はO氏宅へ行き、清酒と油揚げと蒲鉾を御馳走になりながら、今年一年を展望した。今年一年といっても世界経済の動向や尖閣竹島問題やイラン・イスラエル問題についての床屋談義ではなくて、今年6月に予定されているあわら市議選についての話だった。いまのところ一応市議をしているので、私もこの話へのコミットは可能。


市長と議員の双方は市内有権者によって選挙で選ばれる。
有権者は市長に行政執行権を託し、議員に執行の監視権を託す。「行政と議会は車の両輪」と呼ばれる所以だ。


しかし時折行政と議会が専門的な分野で紛糾することがある。専門的な分野とは、例えば理工学的な分野を指すのだが、議員は所詮素人集団であって話がかみあわないことがある。これは是正されなければならない。


O氏から、「議員に誰がなろうとなりたい人がなればそれで構わないが、議員をサポートする専門家を嘱託として議員会計で雇う。そうすべきじゃないか」と言われたが、一理あると思う。


個人的な思いを付け加えるならば
昨年は、議会報告会が12会場で2回開かれた。そして一部の会場では、試験的にではあるが、手話通訳がついた。聴力障害者も納税者であるのだから、通訳が保証されるのは当然だ。


昔加賀市の手話通訳者と話をしていた時、「加賀市は、議会に手話通訳をつけるなどして全て通訳を保証している」と言われて私は驚いた。


その何年か前に、米国人セッド・チャップマンさんから「私の故郷カリフォルニアではハンデキャップトパーソンという言葉は既に死語です」と言われて私はもっと驚いた。


私たちおじさん種族はもうどうでもいいのだが
若者たちよ、広く世界に出ていってほしい。ツアーではなくて個人で出て行ってほしい。その時に経験する摩擦こそが大事なのだと思う。


2013/01/02 (水) 無題


きのうは、終日ベッドに寝転んでテレビを眺めながら過ごしていた。家族以外と顔を合わせることもなく、携帯電話的会話の相手は女性一人、男性二人のみだった。


男性のうちの一人は、いつも僕のブログを広島の地で読んでくれているみたいだ。
彼から「牧田くんの文章の背後にはちょっとエッチな描写が見え隠れする」と言われたが、当然のことながら全ては創作だ。


12年前にこのブログを書き始めてから二年間ほどは生真面目文章を遮二無二書き続けた。しかしこれでは疲れがたまるだけで、もう少し精神を弛緩させることが必要なのではとの思いが出てきて、エンタメ風脚色を取り入れた。


「こういうことがあったら素敵だろうなあ」的潜在欲望が「こういうことがあった」的結果報告にすり変わる時、我々庶民はささやかな幸せを感じるのである。
これを妄想として退けるのは簡単だが


小説家・木卓も
人はおそらく人生の大部分を妄想に費やして生きているはずである。妄想こそ意識だというべきだし生活だといっていい。ただ人は恥ずかしがって口を噤んでいるだけだ。

と、 「馭者の秋」で書いているのである。


それはともかく、広島在住のMくんと携帯電話で話していて、僕は無性に広島へ行きたくなった。
広島球場で東出のプレーを、野村監督の采配を見たい。厳島神社へ行って平清盛を偲びたい。何よりも広島の牡蠣を食べたい。その時は、Mくんに一宿一飯の負担をかけることになるだろうが、どうぞよろしく。


ところで
福井新聞1月1日号の28面、29面に高橋源一郎vs赤坂憲雄の対談が載っていて、そこに日本のこれからが暗示されているような気がした。


高橋・・一番奥の田んぼで米を作っているおじいさんに聞いたら「いつかみんな原野に戻る。それでいいじゃないか」と。つまりゆっくり階段を下りている。小さい共同体だからそこそこ仲も良くて、一軒の家で世間話をしたりテレビを見たりで孤老がいない。みんな静かに下っていく暮らしです。威厳があってヒューマンです。いいなと思った。
で、これは一体何だろうと考えた時に、自分たちの運命を自分たちでコントロールしている自信の表れじゃないかと思いました。・・・


赤坂・・そうなんです。で、どうするか。人口が爆発的に増えていた明治29(1896)年、昭和8(1933)年の津波の時と違うことだけは確か。当時のような「復旧」はあり得ないんです。


高橋・・そもそも旧に復するの復興は、高度成長から続いた右肩上がりの延長を想定したものです。でも、日本の近代化が地方を切り捨てて中央が繁栄し、余った物を地方に分け与える形で成立していた以上、経済のパイが縮小して分配が困難な今の時代は、原理的に不可能です。なのに大半の政治家は3・11から2年近くたっても「できる」と言う。恐ろしいことです。


赤坂・・もう一つ。明治以来の人口急増に伴う食料対策として、全国の「裏」や「潟」を埋め立てた歴史があります。そうして生まれた水田や、水田をつぶしてつくった新興住宅街が丸ごと流され水没してしまった。海の怖さを知る漁村と違い、建てちゃいけない海辺の低地に家を建て、街をつくっていた。これも日本の近代化の一つの顔です。


高橋・・親鸞の「往還回向」のように行きと帰りに例えると、日本の近代はずっと往相、行きだった。今は還相、帰りで文明の規模が縮小してゆく。本来それは悪いことじゃないはずです。確かに、ずっと上がってきた人が坂を下るのは恐怖でしょう。でも人間の一生だって上がって下りていく。これが恐怖なら、生きることが怖いということになってしまう。上がってきた過去を振り返りつつ、後からくる世代を「今度は君たちの番だね」と見やる。これが社会というものじゃないか。これからの時代、下りていくイメージを持って世の中を考える必要があるし、実際そうなっていくだろう。そこで鍵になるのはコミュニテイづくりだと思います。・・


というふうに、対論は続いていた。


2013/01/01 (火) 新しい年のスタート


写真ではよくわからないだろうが、私の左手はパンパンに膨れ上がっている。





大晦日の前の日の深夜、私は風雪のなかをひとり歩いていた。考え事をしながら歩いていた時、突風に押されて路上に転倒した。転倒の際、左手を出して体全体の衝撃を吸収しようとした結果、衝撃がそこに集まり手の甲・指はしたたかに打ちのめされてしまったのである。
あれから一昼夜を経過したのだが、腫れは引かず熱を持ったままだ。


寝正月を決め込んでいるので生活に支障はないのだが、好事魔多しというところか。


缶ビールを飲みながら年賀状を眺めていると、ケーブルテレビやインターネット配信で私の議会一般質問を見ている女性が何人かいらっしゃることにちょっと驚いた。
私が「あわら市議会のアラン・ドロン」と噂されたのは過去のことであり、現在の私には往年の美貌は既になくテレビ写りも平均レベルでしかないと謙遜を込めて言うのだが、それにしてもこういう賀状をいただくのは嬉しいことである。
頑張らねば、と思う。