2013年01月(2)

1日ー10日(1)  11日ー20日(2) 21日ー31日(3) 

 
2013/01/20 (日) 昨晩の新年会

突然の話だったが、昨晩は金小PTA時代の役員6人による新年会となった。
酒は「和」(昨年のノーベル医学賞を受賞したなんとかという人が、謝意を込めて友人知人に配った焼酎)。それと「日航のアテンダントをやっている娘のお土産よ」と某女性が持って来た持ってきた「琉球泡盛・残波」。








このブログにもらった酒の写真を出すと、競って誰かが異色の酒を持ってくださる。「まきちゃんのところへはいろんな人が集まるみたいなので、これをみんなで味わってください」と異口同音に言う。これは私にとってとても嬉しいことだ。


もしかしたらこのブログを警察関係者(例えばあわら警察署)も読んでいるのもしれないのでこの際はっきり宣言しておきますが、私の事務所での宴会終了後に参加者は決して車のハンドルを握らない。彼ら彼女らは、タクシーで帰るか、代行運転で帰るか、泊まっていくかだ。


それはともかく
昨晩の新年会集まりの中心人物はT氏だった。いつものことだが、T氏の話を聴いていると、「この人が語る熱い言辞のエネルギーはどこから出てくるのだろう」と思う。


新年会は12時前に終了し、酩酊した私は今朝の9時まで熟睡。


2013/01/19 (土) カラス退治大作戦


私の住む坂ノ下区八幡神社・鎮守の森はカラスのネグラとなっており、夕方になると大群が電線に止り、体を休める。必然的に糞公害が発生する。また、周囲の畑作物をかすめとる。つまり人間にとっては害鳥だ。


ということで、昨日の午後4時からカラス退治作戦が実行された。実行部隊は、あわら市が大阪から呼んだ専門業者で、その業者名は「バード・ストッパー」。


   
①大阪から到着したカラス退治のプロ集団   ②プロの車両の上には隼
     
   
③隼の鳴き声にパニックとなるカラス群   ④そして逃げ惑うカラスたち


写真②でわかるようにカラスの一番の天敵は隼だ。降下時の速度は時速390kmの記録を持つ。隼(勿論模型)の嘴から鋭い金切り声が発せられると、パニックになったカラス群は逃げ惑う(しかしよく見ると、全く動じない肝が座ったというか感受性の鈍いカラスもいる)。


写真③と④はアルフレッド・ヒッチコックの「鳥」を彷彿とさせた。


きょうの朝日新聞19面に小説・「恋文」を書いた連城三紀彦の回顧談が載っていた。
私がまだ若く美しく(これだけは今もか)、そして火傷しそうな感受性の持ち主だった頃に読んだ恋愛小説で、強く印象に残っているもののひとつだが、執筆当時の連城の生活環境の厳しさに驚いた。


2013/01/18 (金) 新聞を読んで(2)


 震災遺族の支援を続ける俳優・堀内正美さんの話。


「傷ついた人とは「向き合う」よりも「寄り添う」ことが大事だとわかった。
遺族支援を通じ「世の中は不条理で、人生は喪失と悲嘆の繰り返し」と知った。立ち直りかけた矢先に別の家族を病や事故で亡くす人。酒に溺れ仕事を失う人。子の死後、離婚する夫婦。だが・・・。「絶望の中でもいつか光が見えてくる。灯りの周りにあなたに寄り添う人がいる」」


 神戸市長田区に住んでいた女性の話。


「自宅1階が押しつぶされ、16歳だった長女、依子を亡くしました。圧死でした。火がすぐそこまで追ってきて、それだけは止めたかった。水はなかったので近くの公園からかき集めてきた砂をまいて、必死で止めました。今も鮮明に覚えています。
娘を失った悲しみは、言葉にしたところでわかってもらえない。ずっとそんな葛藤を抱えてきましたが、18年たち、ようやく、震災を受け止められるようになってきました。・・後略。」


私が長男を亡くした時、同じような経験をした人からかけられた多くの言葉が「20年間は、喪失感と悲嘆が続きます」だった。そうすると、阪神淡路大震災で子を亡くした親の多くは、喪失感と悲嘆からのがれられないうちに生を閉じたことになる。


話は突然変わるが


昨日の晩酌中、某女性から入ってきたメールが下記の文章。

こんばんは!今日は、久しぶりにお会いできて、さあ、少し、お話できるかな?と思ったのに、お客様が来てしまい~〓残念でした〓・・後略



冷静に考えてみると、(それが良いのか良くないのかはわからないけれども)私のカラダは異性を惹きつけるフェロモンを常時発散し続けているのだろう。


又話は変わりますが
本日の夕刻4時過ぎから、坂ノ下区にあるゲンキー駐車場付近でカラス退治の実験が予定されています。騒音が多少耳障りになるかもわかりませんが悪しからず。


2013/01/17 (木) 阪神淡路大震災から18年

阪神淡路大震災から今日で18年が経過した。神戸は学生時代を過ごした街である。大火の発生地・長田区は、(二ヶ月間だけど)僕がクラシックバレエをならっていた所だ。


中古住宅購入の仮契約をすませたばかりの友人から、「住宅の被害状況を調査してほしい」との依頼を受け、震災勃発一ヶ月後に現地へ入った。


報道の映像ではわからないものひとつに、匂いがあった。震災の匂いというものだ。芦屋の或る地区では全戸が倒壊し、そのあわいのあちこちに立てられた線香の匂いが悲しみの全てを表現していた。


調査を終えた日の晩、友人二人とともに夕食のために十三へ出かけたのだが、通りの賑わいに変化はなく淀川をはさんでの彼岸と此岸でこんなにも違うものかと驚いた。


先日、大震災で逝ったこども達の家族を追うボランテイアをやっている人の新聞談話を読んだ。「自分のこどもはその年のそのままのかたちで宝石箱に入っています」という声が多かったそうだ。その気持ちはよくわかる。




きょうの午前中にあわら市庁舎で打合せの最中、元市議Y氏から携帯電話が入った。内容は、「おおーい、月遅れの文藝春秋を事務所の玄関先に置いとくぞー」だった。
事務所に戻ってからその本をめくっていると、下の短歌が目に入った。


濁流だ濁流 だと叫び流れゆく
      末は泥土か 夜明けか知らぬ 斎藤史(ふみ)


解説はこう書いている。
「作者は明治42年東京生まれ。「短歌作品」「短歌人」創刊に参加。歌集「魚歌」「ひたくれなゐ」など。平成14年没。時代の激流を「濁流」に託して詠っている。父の斎藤濁が連座し、幼馴染の軍人も処刑された二・二六事件が背景にあり、強烈な歌の魅力と共に短歌史上の意味は重い。濁音の多用に加えて、カテゴリーに微妙なズレのある「泥土」と「夜明け」を二者択一の形にしたことが衝撃力を生んだ。」


2013/01/16 (水) 新聞を読んで


本日の福井新聞18面の寄稿欄に「敦賀の名称1300年㊤」が載っている。
お袋が敦賀の出身なので、僕にとって敦賀は第二のふるさと(ついでに言うと第三のふるさとは沖永良部島)だ。


この文を模写した。


江戸時代には北前船の中継基地として、戦前には「東洋の波止場」として、古来、国内各地域は無論のこと、アジア大陸を結ぶ公益拠点として殷賑を極めた敦賀港。昨年は、敦賀・長浜間に日本海の鉄道が開通して130年など、三つのアニバーサリーが同時に到来した。そして今年、「敦賀」と名付けられて1300年を迎える。名の変遷を探った。


◆角鹿郡の誕生◆
7世紀の後半、日本は中国・唐の法律体系である律令を取り入れた。律は罪人を罰する法律であり、令は政治上の掟のことである。律令にもとづいた中央集権的な政治体制である律令制のもと、地方の行政は、国・郡・里(715年からは郷)となる。これらは現在の県・市あるいは県・郡・町(村)という組織にあたる。
日本の律令制は701(大宝元)年に作られた大宝律令によって完成したとされる。大宝律令の施行によってそれまでの越前国角鹿評が、角鹿郡として、律令制にもとづく地方行政区画に編成されることになった。
大宝律令の運用は、645(大化元)年に始まる大化改新と呼ばれる一連の政治改革を通して、半世紀に渡り模索されてきた中央集権的な国家の青写真が完成したことを示す。「律令の興り、けだし大宝に始まる」と回顧されるのは、大宝律令の歴史的意義を端的に表現している。


◆記紀に登場◆
ところで、角鹿が含まれる越前国はいつ成立したのであろうか。越前国を史料に初見するのは692年、「日本書紀」の持統天皇6年条においてである。これは越(北陸)地方で、まず越前国が置かれたことを示し、その後、越後国や越中国が置かれたと考えられる。
大宝律令が発布されて9年後の710(和銅3)年、元明天皇の時、藤原京から平城京へ遷都される。「咲く花のにおうがごとく」と歌われた日本初の本格的な首都の誕生である。2010(平成22)年は、「平城遷都1300年祭」が奈良を中心に展開された。
また昨年は、現代に伝わる日本最古の歴史書「古事記」が完成して1300年の節目であった。そして、日本最古の正史でもある「日本書紀」は7年後の2020年に完成1300年を迎える。
二つは合わせて「記紀」と呼ばれ、記述対象時期や記述法などに違いはあるが、ともに国生みから、有名な岩屋戸、稲羽の素兎、ヤマトタケルの熊蘇退治など、豊かな表現で描かれている。現在の敦賀や福井県とゆかりのある人物や事象も語られている。


◆角のある人◆
「この蟹や 何処の蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ・・・」
「古事記」に登場するこの歌は、15代応神天皇が美しい姫を見初めた喜びを表した歌である。角鹿つまり敦賀の蟹と言えば、今では「越前蟹」というブランド品。カニをキーワードに古代と現代がつながっている。
「古事記」仲哀天皇の段に、角鹿の仮宮にいた太子(応神天皇)に気比大神が奉ったイルカの血が臭かったために血浦といい、それが「都奴賀」になったとある。
「日本書紀」垂仁天皇二年の条には、崇神天皇の時「意富加羅国」(朝鮮半島)の王子「都怒我阿羅斯等」が越国の笥飯浦に来着したが、額に角があったので、この地を角鹿と称したと記す。
越国というのは、越前・越中・越後に分かれる前の北陸地方のことであり、笥飯浦は気比神宮のあたりの海岸である。角がある人にちなんで角鹿というようになったーこれこそ、ツヌガの地名起源説話と言われるものだ。



著者が福井県議の糀谷さんであることにびっくりした。糀谷さんとはいろんな会合でご一緒するが、「気比史学会」会長であることなどついぞ知らなかった。


ふるさとの歴史を知ることが、ふるさとを愛することの土台となる。その意味で、今年6月のあわら市議選には、その方面に造詣の深い人がひとりぐらいは出て欲しいと思う。


2013/01/15 (火) 整理・整頓

春を待つ花々たち



昨日は事務所の整理・整頓で一日を過ごしたが、整理・整頓をしているうちに改めて不要物の多いことを実感。


書類はPDFデータにすれば、その時点でゴミ箱行きとなる。昔買った小説の類(たぐい)も、辞書以外は読み返すことがないのでゴミ箱行き。そうなると、幾つかの収納ボックスも不要で作業スペースはゆったりとしたものとなり、スペースがゆったりすると、身軽な気分になる。


伝統的日本建築の和室には余分なものは何も置かれていなかった。鎌倉武家政権になった時、侍たちの合言葉は、「いざ鎌倉へ!」だったという。それは源頼朝殿に異変があったならば、すぐに鎌倉へかけつけるという気概の現れだ。そのためには住まいの調度を必要最低限として後顧の憂いをなくしておく必要があった、とものの本で読んだことがある。





ということで
今日からの私はCAD三昧の予定です。


2013/01/14 (月) 昨日の日曜日


昨日は、隣区・下八日区の初寄り総会会場で区長の了解を得て、挨拶をさせていただいた。


「今年6月にはあわら市の市議会議員選挙が控えています。私は、みなさんのご支援で金津町議2期、あわら市議2期の計4期を勤めさせていただきました。しかしながら、今年6月で辞めたいと思います。これは随分前から考えていたことです。理由は幾つかあります。・・中略・・議員を辞めてからも末長いお付き合い、よろしくお願い致します」と結んだ。


妄想したり妄想的文章を書いたりするのは好きだけれども、人前で喋るのが大の苦手の私によく十数年間もの長いあいだ議員を勤めることができたものだと思う。


たまたま総会に同席したS議員(多分あわら市で一番有名な長老議員)と共に外に出た。総会会場は下八日毘沙門神社境内にあり、昨日は左義長をやっていた。その左義長の火を見遣りながら、ふたりは過ぎし日のいろんなことを語り合った。老人と熟年(私のこと)が広い境内の一隅で静かに語り合う姿は恐らくいっぷくの美しい絵になっていたことだろう。


ともあれ、今年の6月から私の生活は大幅に変わり再び沈思黙考型の人となる。或るときは旅の人、或るときはアーテイスト、そして或るときはドンファン・・・といろいろ考えてしまいます。

昨日今日とパソコン復旧に関して何人かの方のお世話になりました。
先ずは、壊れていたアクセスカウンターの復旧。毎日百数十人の方がこのブログをみてくださるので、カウント数をみることも、私の楽しみになっています。


次にフェースブック。
以前、友人に作っていただいたのですが、操作方法のわからない私はそのまま放置するしかなかったのです。しかし、昨晩、某女性に来ていただいて懇切丁寧な説明を受けました。


「某女性とは誰か」
という電話質問があったのだけれども、これを公開することは個人情報保護法案に抵触します。


それはともかく、おかげで少しはわかりました。指導してくださったみなさん、ありがとうございました。


2013/01/13 (日) ヨイトマケの唄を聴きながら


堺屋太一の「活断層」を読み終えた。2006年発行の未来予測小説で、舞台は沖縄西南端、人口1万2千人の小島で時代はバブル絶頂期。。この島にCTS(セントラル・タンク・ステーション)建設の使命を帯びた大手商社社員・桐野陽一がやってくる。


誠実な桐野はこの巨大事業で島民が潤うことを信じつつ東奔西走する。初めは三顧の礼で桐野を迎えた村長・村議長はじめ島民たちだったが、徐々に歓迎ムードが変化して、最後には「島の生活と命を守る」CTS反対大決起集会となり、大手マスコミも全国へ報道発信する。


このうねりをつくったのは、島に流れ着いて生活していた「生態分布調査員・牧」で、実はこの牧は全国の反対運動を暗闇でオルガナイズするプロだったのである。


通産省官僚だった著者・堺屋が沖縄に赴任していた時の実話をもとにした小説で、「桐野も牧も、勿論モデルがいる」とあとがきに書いている。


体制側の(確か、経済企画庁長官をしていたのではないかな?)書いた本だから桐野に好意的ではあるのだが、だからと言って牧を突き放してはいない。牧の「経済成長による利便と引換に人間はかけがえの無い自然と生活することへの尊厳を失っていく」という末尾近くの独白は、今日(こんにち)こそ我々が座右の銘としなければならないのではないか。


たかだか16%の支持で復帰した自民党政権が所詮古い自民党でしかないという実態を露呈するのに、そんなに時間はかからないと、私は思う。


一昨日の朝、高級酒を持ってきてくれた人がいた。私は横文字が読めないので、これがウイスキーなのかブランデーなのかワインなのかシャンパンなのかわからない。でもなんであろうと構わない。
「酒と女性を差別しない」が私の生き方の基本だ。



その日の晩に来訪した客人2人にこれを振舞おうと思ったのだけれども、既にカラオケで酔っ払ってしまっていたので出すのを忘れた。


今宵ひとりでじっくり味わうつもりです。


2013/01/12 (土) 出初式


本日は坂井市三国町で嶺北消防組合の「消防出初式が開かれた。前半は屋内式典。
県会議員の斎藤新緑氏が来賓祝辞で「かって寺田寅彦は、≪災害は忘れた頃にやってくる≫と言ったが最近は≪災害は忘れる前にやってくる≫であります。」と挨拶した。
・・県議ともなると味わい深く挨拶する。





後半は屋外で太鼓演奏、分列行進に続いて越前三国鳶による演技披露(下の写真)。
命綱無しでの高所演技はすさまじい。見ている私の局所が縮こまったほどだ。
ともあれ、私にとって今年が見納めとなる。・・・と思うと昨晩の2時まで続いた深酒による頭のマヒも(一瞬だが)消えてしまった。
2013/01/11 (金) 新聞から


本日の福井新聞16面に、見出し「宗教文化で誘客を」が載っていた。


記事を模写すると
「福井、石川県の宗教文化を連携させて観光振興を目指す「越前加賀宗教文化街道」構想。その提唱者である石川県加賀市の寺前秀一市長が、このほど出版した著書で、首都圏の団塊世代をターゲットにした誘客戦略を披露している。
寺前市長は1949年加賀市に生まれ、運輸省、国道交通省、日本観光協会理事長、高崎経済大学教授などを経て、2009年から現職。観光学博士で、観光に関する著書も多い。
「越前加賀宗教文化街道~祈りの道~」は、あわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町が、11年に推進協議会を創設。吉崎御坊や永平寺、平泉寺白山神社などを生かした観光ルートの商品化を目指している。
寺前市長は新刊で、死が身近になる団塊の世代が興味を引く「死生観」に着目。14年年度の北陸新幹線の金沢開業を見据え、越前・加賀に存在する白山信仰や一向一揆、禅といった宗教文化をつなぐ物語をつくり、共同観光プロモーションを展開すべきとしている。
モデルとするのは南ドイツを縦断するロマンチック街道で、同街道のようなネーミングが成功の鍵と指摘。ルターの宗教改革のように、中世、中世日本の宗教文化を主要テーマに据えれば世界にアピールできると述べている。
また、団塊の世代は全共闘世代である点に注目。一向一揆が大名の介在を防ぎ「百姓の持ちたる国」を築いたというイメージを観光資源として利用すべきと提案する。報恩講や精進料理といったヘルシーな食文化もセールスポイントに挙げている。
寺前市長は「新幹線開業に向け、首都圏の成熟世代に照準を合わせ、ルート化を図りたい。越前と加賀がお互いに補い合い、宿泊にまで結びつくビジネスモデルをつくる必要がある」と話している。
新刊は「観光学博士の市長実践記~クール加賀三百万人構想~」のタイトルで、システムオリジン(静岡市)の発行。2800円。」

別に新刊の宣伝をするために模写したわけではないし、私は読む本の全てを図書館に頼っているので、機会があったら借りてこようと思う。


寺前市長の肉声を聞いたのは2年ほど前。蓮如上人記念館にあわら、坂井、勝山市、永平寺町と加賀市の4市1町の市長等が集まった時のパネラーのひとりがこの人だった。1949年生まれというから、私と同い年で、文中にあるように「団塊の世代で全共闘世代」であることも共通する。


もしかしたら生き方よりも死に方のほうにより強く惹かれているのかもしれないし、だとしたらウマが合うかもしれないと思った。


付記
確かに、越前金津の領主だった溝江氏は、加賀から攻めてきた一向一揆の手によって滅んだ。そして一揆の本陣が、自宅の近所の総持寺であることも、歴史の栄枯盛衰を私に強く感じさせる。


参考文献(福井新聞より)
妙隆寺住職 児玉常聖(あわら市)
一族の子々孫々 全国に
武将たちの鎮魂

 関ケ原で領地を没収された溝江氏四代目、長晴(ながはる)の浪人生活は28年にも及びました。しかし、寛永5(1628)年、彦根藩主二代目、井伊直孝の時代に仕官が許され、禄(ろく)五百石で藩士となります。46歳(推定)になってようやく、安住の地を得たのです。
 井伊家は、「安政の大獄」で有名な井伊直弼(なおすけ)をはじめ、幕末まで大老職を5人も出すなど「常溜(つねどまり)」と呼ばれた特別な大名で、参勤交代を免除されるなど幕閣の中でも名門中の名門です。初代藩主、井伊直政と溝江三代、長氏(ながうじ)が縁があったことから、長晴は生活に窮しながらも「井伊家こそが頼みの綱」と己の立ち位置を敏感にかぎ取っていたのかも知れません。

戦国溝江四代を主とした資料集

溝江氏の子孫たちでつくる「全国溝江氏々族会」が10年前に刊行した戦国溝江四代を主とした資料集

 正保3(1646)年、長晴は彦根で亡くなりました。しかし、晩年、彦根藩士として生き延びたことは、溝江一族にとっては大変意義深いことでした。
 なぜなら…長晴の子や孫らは、現代にまで末裔(まつえい)を多く残すことになったからです。その系統は、彦根藩の本家をはじめ津軽弘前藩、仙台伊達藩、福井藩本多家中、播州龍野藩、出雲松江藩、四国宇和島藩、久留米藩と全国に広がり、一族の血は嫡流、分家と絶えることなく幕末、明治、そして現代と受け継がれたのです。
 平成6年5月、東京に住む彦根溝江の子孫の溝江伸康さん(89)の呼び掛けで結成された溝江一族の会「全国溝江氏々族会」の会員30人余りが、溝江発祥の地、金津を訪れました。一行は溝江館跡などを見学し、芦原温泉で親交を温めたのです。さらに、先祖の歴史を埋もれさせてはいけない-と一族の史料集を刊行しました。
 思えば、私は昭和47(1972)年11月に、溝江初代景逸(かげやす)と二代長逸(ながやす)の墓前祭にかかわったことから、妙隆寺の住職を継いだわけですが、当時は、長氏や長晴に関する史料が全く無く、私は自分の祈り事に迷いを感じていました。
 それが、子孫の方々とかかわりを持つことで、数多くの史料や品々が彦根に残されていたことを知りました。それらの存在によって、戦国の溝江四代が、いかに乱世をくぐり抜けてきたか、浮沈(まるでジェットコースターのような)を繰り返してきたか-を知ることになりました。つまり、菩提(ぼだい)寺住職として、鎮魂の対象をしっかりとつかむことができたわけです。
 金津の町の礎を築いた溝江氏の歴史は、私の寺院にとってだけでなく、越前福井の歴史にとっても貴重なものです。さらに溝江一族が、水路開削、導水の優れた職能集団であったことが証明されれば、継体天皇の“越前王権”の研究にも大きく貢献するやも知れません。
 私は歴史の専門家ではありませんが、地元金津町の郷土研究、歴史家の諸先輩の思いに導かれ、こうして溝江氏の歴史の一端を記すことができたことは、望外の喜びであります。(溝江家菩提寺、妙隆寺住職)    =おわり=
  ×  ×  ×
 なお、この連載執筆に当たり、以下の文献を参考にさせていただきました。「越前金津城主溝江家」「金津ふる里の手帖」「越前金津の史話と伝説」「古代の製鉄遺跡」「越前朝倉氏の研究」「越前朝倉一族」