2014年12月
 2014/12/31 (水) 江夏の21球 

 昨晩9時からのNHKテレビ「江夏の21球」は見ごたえがあった。 

 今から35年前、昭和54年のプロ野球日本シリーズ第7戦広島vs近鉄・9回裏の実況中継を(わたくし)はカーラジオで興奮しながら聞いていた。テレビではなくてラジオだったから、耳が球場での白球の転がりを連想させる。そのことで、より興奮度が高まったのかもしれない。

 スポーツノンフィクション作家の山際淳司(既に故人となっているが、この人の語り口が私は好きだった)が、江夏投手はじめ関係者にインタビューをおこなった結果が、エッセイ集「スローカーブをもう一度」に収録され、その数年後にNHKが映像化し「山際淳司・江夏の21球物語」の題名で放映した。
 昨晩の映像は、その再放送だったのだろう。

 江夏投手、広島古葉監督、近鉄西本監督、打者佐々木の三塁線打球に立ち向かった三村、マウンドに駆け寄り江夏の耳元で「辞めるなら一緒だぜ」とささやいた衣笠、スクイズを確信した江夏のはずしカーブを見事にキャッチした捕手水沼あるいは最後の打者となった石渡などの場面場面での心理告白にあらためてゾクゾクした。
 広島初の日本一決定の瞬間、石渡はバッターボックスでうずくまった。本人は口惜しさから茫然自失となっていたのだろう。しかしその姿は美しかった。一幅の名画となっていた。

・・まことに「勝者に花束はいらない(寺山修司)」のである

 野村克也は冒頭の解説で「プロ野球は半世紀が流れていますけど、これ程の場面に出くわしたことはない。おそらくこれからも出るか出ないか分からないと思う。それぐらいの名場面が1979年の広島×近鉄の日本シリーズじゃなかったかと思います」と話した。
 それはさておき
 今年一年間、こんなマイナーなブログにお付き合いくださいました男女のみなさん特に女性のみなさん(読者として頭に浮かんでくる人は、女性で2~4人、男性で6~8人)、ご愛読どうもありがとうございました。
 先日嫁はんと話したのですが、(わたくし)は 来年一年もどうやら生きていきそうです。
 体の衰えがどれほど進行しようとも、脳が動く限り、キーボードを叩いていこうと思います。

 ということで来年もよろしく。

 

 2014/12/30 (火) もう正月か 

 毎年、正月が近づく度に思い出すのが次の歌。

 正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし 一休宗純

 一休は、頭蓋骨を錫杖にひっかけて街中(まちなか) を歩き回ったという奇行の持ち主で、こんなことを今の世の中でやったら、即、警察にひっぱられるだろう。

 奇行の持ち主は、当然、奇言の持ち主でもあって、有名なところでは

 釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな

 女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

 世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり

 などがある。

 一休の死後、約300年遅れて、良寛が越後に姿を現すが、両者共に禅宗。

 (わたくし)の家は浄土真宗なので、蓮如に関する講話を仕方なく神妙に聞いているが、実のところ、禅宗に惹かれている。
 
 日本国のつまり我々の美意識形成に大きな力となったのは、禅宗である。これは間違いない。
 生活語のなかに、禅の言葉が沢山沢山入っている。 茶道も作庭も禅僧によって日本に持ち込まれた。
それはともかく
  事務所の応接コーナーに暖簾を下げた。

  

 「愛」という言葉にご注目。
 それはともかく
 生涯学習館一階の図書館ロビーに飾られている下の絵が素敵です。昔の金津小学校の裏にあった公園山の頂きで描いたものだと思います。

 館員に、「購入したこの絵の作者は誰ですか」と聞くと、「名前はわかりません。通りすがりの乞食絵師です、とだけ言って去って行きました」という答えが返ってきた。
 同じアーチストとして、(わたくし)はカッコイイと思う。表現されたものがすべてなのであって、名前などどうでもいいのである。

クリックして拡大で観てください。
 


 それはさておき
 事務所玄関ドアガラスパネルに手作りプレゼント看板を取り付けた。
 来年は、スタートダッシュだ。
 

 2014/12/28 (日) 新聞を読んで

 「ふるさと語ろう会」のみなさんへ
 
本日の福井新聞8面をご覧ください。
 

 2014/12/27 (土) 来年は仕事一途の人間を目指そう

 昨晩は
、善男善女ないまぜ8人が集まっての忘年飲み会。大鍋ブリ大根、肉ジャガ、刺身等々と高級酒(焼酎・清酒・ワイン)で、話の焦点はもっぱら「あわら市長選について」だった。
 このブログを読んでいるみなさん・・コンテンツ・「声の広場」にどしどし思いを書き込んでください。
 それはともかく
 真面目な論議で、夜は静かにふけていった。
 事務所のソファーは、8人集まるといっぱいだ。来年は、事務所改造計画に着手したい。
 ニューヨークヤンキースの黒田博樹投手が、広島カープに復帰することになった。これはすごいニュースだ。嬉しいニュースだ。今年の黒田登板MLBの試合は全て観ているが、一番印象に残っているのは、会心のストレートがボールと判定され、鬼のような形相で主審にくってかかっていった瞬間だ。
 男は怒る時こそ美しい。女は微笑む時こそ美しい。

 来年の(わたくし)はカープファンになる。広島市内在住の友人宅に牡蠣を食いに行った折にはマツダスタジアムを訪れよう。
 ただし、私は熱狂的な阪神ファンでもあり続ける。
 巨人を負かすためには他の5チームの奮起が必要なのである。

 2014/12/26 (金) 底冷えの朝

 
明日が土曜日なので、世間一般は本日が仕事納めの大掃除の日となる。
 ということで、昨日は、役所のいくつかの所管課や自分の仕事と関係のある職場へ出かけ、年末の挨拶を簡単にすませてきた。


 朝起きると、事務所への露地がうっすらと雪化粧。



 きょうは、積もってほしくないなあ。

 今(午前8時半)、遠藤周作著「男の人生」を読み終えた。
 下巻は太閤秀吉に反旗を翻した関白・秀次騒動の記述が中心になっているが、心の中で涙せずに読めなかった。
 淀君(茶々)が、もはやもうろく爺さんと化した豊臣秀吉を利用して、秀次及び側室、子供らを含めた一族郎党数十人を切腹・斬首に追いやったのは、我が子・拾丸(秀頼)を関白の座につかせる為の陰謀とするのは浅薄な見方で、彼女が浅井の血筋の維持に異常な執念を燃やした結果なのである。

 浅井長政と茶々の母・お市は仲睦まじい夫婦(まきたふうふのよう)であった。夫婦は4人の子を設けた。しかし浅井氏の居城・小谷城は秀吉の手によって陥落し、長政は自害。市・茶々・初・江は助け出されたが、万福丸は男子という理由で磔処刑。
 その後、お市は柴田勝家と再婚した。しかし、居城・北の庄城を又も秀吉に攻められ、お市夫妻は天守閣にて爆死する。

 そして今度は、あろうことか、茶々は秀吉の側室とならされるのだ。・・数奇な人生だ。

 秀次失脚のあと、下巻288ページで遠藤はこう書いている。

 「祝着至極に存じます」
 とつるみ(お付の老女)は金壺眼に意地悪な笑いをうかべて茶々に祝をのべた。
 女主人はにっこりとうなずき、つるみの眼を見た。
 何も口には出さぬが、おたがいの言いたいことは両者にはおのずと伝わるのだ。
 「豊臣家の手足はこれにて がれました。中納言秀保殿も関白秀次殿も亡くなられ、拾丸さまの向後を阻む者は一人もおりませぬ」
 (太閤殿下もあのお体では、そう長くはお生きにはなれぬ。その時は豊家ことごとく消滅し、われら浅井の血を受けた者と故郷江州に育ちたる者の世になります)
 (茶々さまには長い間の御辛抱でございました。これにて充分、小谷での御父上さまのお苦しみ、北の庄での母上さまのお恨みをお晴しになれたのでござります)
 彼女たちは顔を見合わせ、それから驚くべきことを部屋の外に洩れぬよう囁いた。
 「太閤さまは若君さま(拾丸)をおのれの実子とお信じになられ、毛ほども疑っておられませぬな」
 「つるみ、その儀は死んでも口に出してはならぬ約束」
 つるみの金壺眼が光った。それには、老女の持つ虚無的で悪魔的な笑いがこもって
 「ここまでは誰にも聞こえませぬ。御安心なされませ」
 とひとりごちた。
 「さてさて、男とは愚かなもの。太閤さまほどのお方でも、御自分の御側室が生まれたお子ゆえ、わが子にちがいなし、そうお思いになる。男とはまこと・・・操りやすきものにござりますよ」

 2014/12/25 (木) 男の一生

 遠藤周作著「男の一生」も下巻に入った。
 この本の時代背景は戦国期で、主人公・前野将右衛門はあの蜂須賀子六を竹馬の友として木曽川沿いに生まれ育った川並衆で、川並衆とは、木曽川沿いに勢力を持ったとされる土豪の総称だ。
 川並衆は、尾張美濃の木曽川沿いで武装集団として勢力をもっていた。合戦があると、利のあるほうへ付くが、普段は、水運などの仕事に携わっていた。
 織田信長が美濃を攻めるにあたり苦労するなか、秀吉(当時は木下藤吉郎)が彼ら川並衆を味方につけたことで、美濃攻略のきっかけとなる墨俣一夜城の成功につながった。秀吉の出世街道もここから始まったと言える。
 秀吉の前半生における破竹の勢いは、竹中半兵衛の力が喧伝されているが、蜂須賀小六と前野将右衛門の活躍が、実は非常に大きかった。ともに戦にも強く、調略にも長けていて欠かせぬ人材だった。

 将右衛門は藤吉郎の家来となり、数々の戦功をたてていくなかで、妻「あゆ」を娶り子をなし亡くし遂には妻にも先立たれ、三木城城主として十数万石の大名となったが、世の無常にさいなまされるところで終わる。

 下巻を読み進めていると、将右衛門は、大阪城の作事をやっていた頃に、千利休や細川 幽斎などの茶人を通じて、キリシタン大名・高山右近を知る。右近からキリスト教の諸々を教えられることになるのだが、さすが遠藤周作の筆は、この辺から盛り上がりを見せる。
 敬虔なキリスト教徒で、名著「沈黙」を書いた人でもあるのだ。
 「ふるさと語ろう会」会員のみなさまへ。
 先日の忘年会冒頭で申し上げた記事は、12月28日の朝刊に載ります。ご覧ください。

 追
 このブログの読者のひとり(男性・推定年齢40代)から、画面が暗いと言われたのでリニューアルしました。
 2014/12/24 (水) 無題

  「還暦が血液流の不純化の始まり」という人口に膾炙した言葉があって、であるとするならば、還暦の直前に脳内出血で倒れた(わたくし)などは、そのまっただなかに居るということになる。
 しかし、添加物食品などで犯された血液に蝕まれる自分は、そのことによって人類の終焉を考える癖がついてしまった。

 識者によれば、人類維持の三要素は「人口、水、食糧」である。これをもろに体現しつつあるのが、人民中国で、十数億の膨大な人口を持つあの国の国土は、日本と比べて乾燥地帯である。中国の二大大河即ち揚子江と黄河のうち、黄河の水は海に流れ込んでいないそうだ。何故なら、黄河流域にある大工場地帯が、工業生産のために水をしぼりつくし廃液だけの流れになってしまったからだという。

 今、中国が、例えば北海道の土地を札束にものを言わせて買いあさっていることの主眼は水確保にあるそうだ。世界を俯瞰するなら、決して「水はタダ」ではないのである。

 外遊する中国人のモラル違反が、テレビで紹介されているが、実はそれどころではない危機が裏で進行しつつある。

 とんぼさん作品
・戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝
・丸岡藩騒動記 作造

 2014/12/23 (火) きょうも元気だ若葉がうまい

  昨日の朝、某氏宅に寄った時、「まきさんのブログ画面が見づらくなった」と言われてその人のパソコンを覗いたが、自分のパソコンでは普通に見えるものが、確かに見づらい。これは個々のパソコンの設定の仕方に問題があるからなのだろうが、このブログを覗く少数の人たちは(推察するに)年寄りばかりで、ということは書き手も読み手もパソコン音痴なのである。
 仕方がない。
 それはさておき
 今日の早朝に、金津大橋から竹田川を眺めていて、河戸(百代の過客に収録)を思い出した。著者の八木進さん(故人)は、元坂の下区・区長です。PDFでは読みにくいだろうと思い、ペーパーをキーボード叩きで電子ファイル化しました。
 以下です。

 「〇坂の下河戸 橋北で一番下流の河戸。12段程の福井石尺六の石段。船着場兼生活洗い場も三尺板石が十二尺程並べられていた。三国から小荷物や川砂・砂利の荷揚げが行われていた。
河戸の向う岸は浅瀬で、坂ノ下・古両区の馬洗い場として利用され、馬河戸と呼んでいた。

〇みそや河戸
生活河戸兼用の舟繋場。終戦後は三国新保からラッキョが荷揚げされ、加工用洗場として利用された。

〇青辰河戸
整備された船着場で、青辰石材店・岡部商店が主な利用者。石材や肥料が荷揚げされ、米が三国湊に積み出された。

〇十日河戸〇市姫河戸
この両河戸は、町の中央、市姫橋の下手に向き合って、片や六日区・新区、片や南金津中心街の船着場で、上りの舟では雑貨、海産物、豆粕などが荷揚げされ、地域の商業に大きな役割を果たした。

〇水口河戸 〇桜井河戸 〇三段口河戸
この頃はまだ上新橋も浦安橋もなかった。桜井河戸からは米が積み込まれ、三段口河戸では砂利や川砂がおろされた。

〇新橋河戸〇八日河戸〇正山河戸〇古町河戸
これらの河戸は、その地域の生活河戸として重宝がられたが、水道や洗濯機の普及と河川改修によって、今は殆んど面影すら見ることができない。

●水口区から坂ノ下区にかけて北金津十ケ所、南金津四ヶ所、更に上流にかけて稲越、矢地、清間、御簾尾、桑原、次郎丸、疋田など各区にあった。
〇水口区の桜井惣一さんの先代までは、三国港へ下りは米、上りは豆粕などを運ぶ自営の舟を持っていた。

〇古町の馬場さんは「おもて屋」の屋号で三国通いの川舟運送業を営んでいた。

〇坂ノ下区の清水さん親子も三国通い自営の水主だった。」
 それはともかく
 今朝見た「YOU TYUBE」に、日本共産党の小池氏が出ていた。氏の言うことは(全部ではないが)もっともだと感じたし、今度の選挙で議席を伸ばしたことを納得もした。

 確かに、(イケメンとは言えないが)志比氏の講演を聞きあるいは市田氏の講演を聞いた時にも思ったことだが、党の幹部もまた人間味あふれる一介の庶民であるのだから、とにかく機関紙「赤旗」の名称を変えなければ、非合法時代の共産党のイメージを払拭できず、これからの伸長は覚束ない。重ねて言うならば「共産党」という党名も変えるべきである。

 そう思って、先ほど、あわら市共産党市議・Y氏に携帯電話で語ったところ、返事は「うんわかった」だった。
 どうでもいいことだが
 プリンターのインクリボンを買いに街へ出て、きょうが天皇誕生日であることが初めてわかった。
 祝日ならば祝い酒を飲まねばならぬと思い、原則6時以降の禁を破って5時から祝い酒焼酎「いいちこ」を飲んでいる。ひとりで飲んでも寂しくはない。酔うほどに自分の手が足が五臓六腑が、脳にささやきかけてくるのである。ちょっとだけ寂しくなったので、ある(おなご)に電話したら寂しさは消えた。

 2014/12/22 (月) 新着情報

 昨日の朝にとんぼさんがUSBを持ってやってきたので、「とんぼ作品リスト」を差し替えました。
 

是非お読みください。
 このところ、(わたくし)は、朝三時に起きたら、先ず味噌汁をつくり、つくった味噌汁を飲みながら新聞のスポーツ欄を読み、それが済んだら、このマイナーなブログを書きこみ、あとは仕事の時間まで「YOU TYUBE」で山崎行太郎の語り(というよりもしゃべり)を聞いている。「YOU TYUBE」には保革ないまぜいろいろ名のあるひとが登場しているしそれぞれにナルホドと思わせる質を持っているのだが、山崎はちょっと異質。

 何年か前から、この人のブログは読み続けているが、動画でしか味わえないものがあって、それはユーモアだ。ユーモアは語りの血液みたいなものだ。「学者肌の石頭理屈屋」という先入観が覆される瞬間が小気味よい。

 考えてみれば、今までの人間関係の切り結びもそうだった。初対面での印象がくつがえされていく人ほど、(わたくし)にとっては魅力的に映る。
 それはともかく
 今朝はお酒を二本いただいた。これでまた酒代が助かった。

 
 
 特に写真左側は「大吟醸・北秋田」である。贈り主某氏は、元行政職(旧金津町役場課長)。(わたくし)がこのひとを唯一尊敬するのは、雨の日も風の日も雪の日も嵐の日も、地域の小学生たちを送っていることだ。偉い。
 思うに、公務員にもいい人がいる。
 「声の広場」にご投稿なさったNO521「ときどき匿名さん」へ。
 本来なら、広場でお答えすべきなのでしょうが、本当の管理人はとんぼさんなので、書き込み方法がわからず、ここでご返事いたします。

 インターネットで検索したところ、斉門佳代子の名を「福井県聴力障害者・理事」の欄で見つけることができました。30年前ならいざ知らず、現在では丸山さん以外誰も知りません。「フェースブック」とか「ツイッター」とかに関連付けがありましたが、調べてもどういうひとか全然わかりません。
 知らない人に対して「友達になる」をクリックするのは、相手に対する失礼な行為だと思います。

 2014/12/20 (土) 終末に感じたこ

 思ったほど雪の降らないうちに寒波が去って行った昨日、ぼくはCADにいそしみ、「久しぶりに来客ゼロの日となるのか」と思っていた夕刻に、共産党市議・Yさんが来た。
 新聞朝刊に「米国、キューバと50年ぶりに国交回復」の見出し記事がでていたので、話題はそこに移った。

 ゲバラやカストロによって樹立された共産キューバは、必然的に親ソだ。1960年代初頭だったと思うが、ブレジネフソ連はキューバ国内にミサイル基地を建設した。これに脅威を感じたケネデイ米国は、海上封鎖を強行。「核戦争か!?」のいわゆる「キューバ危機」である。あれから半世紀、ゲバラはボリビア山中で狙撃死、ケネデイはダラスでオープンカーパレードの最中にライフルで頭を砕かれ死亡、ブレジネフも病死して、今はカストロだけが生き残っている。

 テレビは、キューバを経済的に疲弊した国として映し出していた。そこで、ぼくは、複数回キューバを訪問したことのあるYさんに、「Yさんの見たキューバ」を解説してもらった。
 
 答えを要約すれば
 「確かにキューバは、工業立国ではないから街を走っている車も中古のクラシックカーばかりや。しかし、だからこそ世界から観光客 が集まってくる。社会保障は行き届いているし、農産物は地産地消や。貧乏ではあるけれども、暖かい国やから衣料費も要らない」くらいか。

 そのあたりが北朝鮮と違うところか、とぼくは内心思った。
 きょうの午後は、細呂木公民館において、坂本浩太郎氏講演「あわら市のたたら遺跡について」が開かれた。

 坂本氏は、思いのほか元気そうだったのでほっとした。講演が終わったあと、氏にそう申しあげた。

 2014/12/19 (金) もう週末か

 昨晩の来訪者は二人(おなご)
 三人でビールを飲んだのだが、室内灯を消して、持ってきてくれたろうそくに火をつけるとそこは幻想世界だ。



 幻想世界といえば
 二人が来るまで、山本哲士による「吉本隆明の共同幻想論的古事記解説」をユーチューブで観ていたので、闇の中に生じた三本のろうそくの淡い灯りが、伊弉諾・伊邪那美の国つくり神話を思い出させた。

 古事記が日本の天皇制ひいては日本人の意識成立過程を物語る原初本であることはなんとなく知っているし、字面を活劇として面白く追ったことはあるけれども、その深層の部分を読み解く上での哲学者の難解な言葉の羅列には、能力上、到底ついていくことができない。機会があったら、右翼の方に御教授願いたいものだ。
 それはともかく
 「ふるさと語ろう会」会員のみなさんへ
 12月28日の福井新聞・フウに「ふるさと語ろう会」の名称が載ります。暇だったら、お読みください。


 2014/12/17 (水) 寒波再襲来

 今朝は、三時半に眼が覚めた。外は、小雪がちらついている。寒いのでエアコンをつけた時に思い出したのが、ちょうど一年前に読んだ、お隣り加賀市出身の高田宏著「雪 古九谷」。

 時代背景は寛永年間(寛永年間には島原の乱が起こっている)で、主人公は九谷焼きの釜場で働くててなし子・太吉。この男の絵師としての才能の開花を暖かく見守るのが加賀藩銀座役・後藤才次郎。才次郎は、大聖寺藩のおかかえ絵師たちの時流迎合に眉をひそめ、本当の芸術発掘を至上命題とし、結果として加賀藩主から蛇蝎の如く嫌われている。
 そして男としての太吉をまるごと愛し生活を支えていくのが、幼なじみ・りん。
 この小説は、言ってみればこの三人の人間模様描写小説と言える。

 太吉の父親は隠れキリシタンだった。時の政府の厳しい追及の手を逃れるために山中温泉よりも四里東側つまり奥山にある九谷焼きの釜場に逃げ込み、厳しい労働の日々を送るだが、ある日、ついにその素性が発覚し、磔の刑に処される。その時、父親は釜場で働く女性・すずと情を通じており、すずは胎内に太吉を宿していた。

 処刑の翌日、すずは出産した太吉を谷川の岩の上において、身投げを敢行する。偶然その場に居合わせた才次郎は、下女に太吉の生育を命じる。異常な星の下に生まれた太吉は、現世への嫌悪とキリスト教の隣人愛を併せ持ち、長じるに従い絵師としての才能を発揮する。その才能は藩のお抱え絵師のようなただ綺麗で上品なだけのものとは全く別のものであった。

 太吉によって描かれた山中の自然つまり谷川を泳ぐ魚や空を飛ぶ鳥は、目に見えるそれではなく命そのものの発露であり見る人の魂をゆさぶらずにはおれない。太吉には師が居なかった。居なかったからこそ、既成概念を持たずに自分の世界を画帳にぶつけることができた。

 しかし藩主(前田利長だったかな)の凡庸な審美眼ではこれを見極めることができず、藩主と太吉・才次郎・りんの三人組との間の確執だけが深まり、とうとう三人組が釜場を去る日がやってくる。才次郎は太吉に「最後だ。お前の一番好きなものを九谷の焼き物に絵付けしてくれ」と命令する。・・思案した太吉が選んだ題材は、妻・りんの裸体だった。

 出来上がった平大皿に乗り移ったりんの裸体は、言葉での評価の域を超えていた。才次郎は皿の前で、ただ涙するばかりだった。

 才次郎は、「女性の裸体を描いた焼き物などかってなかった。藩主が知ったら切腹ものだ。おまえたちはこの皿を持って山に逃げろ。そして山中の地面を掘って隠してしまえ。300年ののちにこの皿が発見された時、お前は評価されるだろう」と言って、才次郎自身も釜場を去っていく。

これが小説のエンデイングなのであるが、芸術の分野での天才は、後世に評価されるものなんだろう。
 今回の選挙で、民主党と共産党が野党提携をして入れば、公明党はともかく自民党の議席獲得数は随分違ったものになっただろうし、その意味では「小異を捨てて大道につくというか大きい一点の共通軸をつくる」姿勢を両者が求めるべきだったと思うが、それはともかく、細野さんが、来月行われる民主党代表選挙に手を挙げた。

 選挙区は確か静岡だが、もともと彼は滋賀県で生まれ育った。何年前だったか、細野さんを囲んで数人での昼食会に出席したことがある。その時、福井のことをえらい詳しく知っていてそれがリップサービスではなく福井への思い入れが強い人だと感じたが、聞けば幼少の頃、毎年の夏休みを若狭の海で過ごしたとのこと。

 敦賀・気比の松原を母方の実家とする私とそこのところはよく似ていて、しかし人格見識ともにすばらしく、唯一私がまさっているのは男としての顔立ちの良さだけだけれども、それはともかく、頑張ってほしい。
 それはともかく
 今朝、このブログをアップロードしたのだが、なんべんやってもうまくいかない。ホームページソフトの「接続設定」を覗いたら、何故かわからないが、設定の諸々が消えている。そこで、サーバーに電話したら、「インターネットエクスプローラーを起ち上げて、今から申し上げるアルファベットを書き込み、「検索」をかけてください」と言う。言われるままの操作で、「パソコン遠隔操作ソフトダウンロード」の画面が現われた。あとは、私自身はなんにもする必要はなく、サーバー係員のマウス操作を画面上で見つめるだけだ。

係員に来てもらわなくて瞬時に問題が解決するのだから、便利な世の中になったもんだと思ったが、一面オソロシイ世の中になったとも思った。つまりいつなんどき、外部から侵入されるかもしれないというリスクを背負うことになる。

2014/12/16 (火) 邦楽を聴きながら 

 半藤利一は、著書「日本海軍はなぜ過ったか」のあとがきでこう書いている。
 「バブル崩壊後の二十余年、この国がいま、どっちに向いていこうとしているのか、非常に不安なところもあるかと思います。
 しかし、未来を切りひらいていくのは若い方たちですから、自分たちで、こういう国をつくりたいという、しっかりとした国家目標を定めて、一生懸命勉強をしてください。勉強をすること以外では、若い人たちの特権はないと思う。年よりはもう、勉強はできません。勉強しても頭に残りませんから。うんと勉強をして、あらゆることを知って、これからの日本をどういうふうにつくっていこうかということを、自分で考えて、そっちの方向にしっかりと歩みを進めていただきたい。
そういうふうに思います。日本の国は、明治の人たちがつくってきた近代日本というものを、大正・昭和戦前の人たちが選択を誤ったために、あっという間に滅ぼしてしまいました。だから、これからの選択を誤らないためには一生懸命勉強をして、あらゆることを知って、これからの日本というものを、自分たちの思っているような国家像を描きながら、正しく判断をして、それに進んでほしい、とお願いしたいと思います。
 日本よ、いつまでも平和で、穏やかな国であれ、そう願っています。」

 要するに、若人が未来をつくるのであって、そのためには、この国の近現代史を柔軟な頭でしっかりと学びなさいよ、というところだろう。
 ということで
 ぼくの趣味のひとつは、国会討論会をラジオで聞くことだ。趣味というよりも、義務感で聞いている。さすが何十万票かをもらって出てきた年収何千万かの人たちだから、話しぶりに品がある。そつがないし耳障りにもならない。
 だけど、なんというかかんというか、印象に残る人は少ない。スマートさだけが残って、訴えたかったことの軸が消えている。
 やっぱり訥弁の人が好きだ。訥弁の人は言葉につまる。そこのところで、懸命に考えていることがわかる。そのこと自体が印象として残る。

 
2014/12/15 (月) 新しい週の始まり 

 伊集院静著「ノボさん」を読み終えて、今はすごくさわやかな気分だ。
 
 俳句の道を猪突猛進の正岡子規は、脊椎カリエスで病の床に伏してからは、看病する母・八重と妹・律にあたりちらす。「痛みに耐えかねて」だけではなく元々が傍若無人の気質を持っていたためだろうが、武家に生まれた八重は文句を一切言わず、我が子の生きざまを全身で見守るのだ。それは、子規臨終の際の嗚咽の激しさにも表われている。

 伊集院としては珍しく明るい本で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を思い出させるし、思うに著者も涙しながら書いていたのではないだろうか。

 副題「小説 正岡子規と夏目漱石」から伺えるように、人好きな子規は人嫌いな漱石を会う度に評価していくようになった。
 写生俳句で有名な子規は、越前は幕末の歌人・橘 曙覧を世に送り出した人としても有名だが、脊椎カリエスで病床に伏すまでの子規をべーすぼーるにのめりこんだ健康青年として描いている。これは伊集院が野球選手であったからこその手腕に拠る。

 例えば173ページ
 「・・・乗五郎は何やら物理学の講義を聞いているような気分だった。しかしそれは奇妙な快感を持って乗五郎の耳から身体の中に入ってきた。
 ノボさんの話す言葉も伊予弁とは違って、どこか東京の匂いがした。
 「試合は九人と九人で対決する。べーすぼーるは言わば合戦のようなもんぞな」
 「合戦ですか?」
 「そうじゃ、背の高さと同じじゃ。攻める者と守る者に分れて試合は進行して行くんじゃ。攻める時は一気呵成に相手の投げ手を倒すんじゃ。守る時は堅固に相手につけ入る隙を見せんことじゃ。それがべーすぼーるで勝つ秘訣じゃ。他にもいろいろ戦法はあるが、まずは基本を身体で覚えることが肝心じゃ。さあ、少し練習をしよう」
 乗五郎はノボさんのべーすぼーるの説明を聞いて、これまで知っていたどの遊びよりも面白そうに思った。
 ・・鍛兄やんが面白いと言うとったが、どうやら本当らしい・・・。
 乗五郎はボールを手に少し離れた場所にむかうノボさんの背中を見ていた。
 楽しかったのはそこまでであった。
 「乗五郎君、べーすぼーるをするのに大事なことは大きな声を出すことぞ。あしがこれから、”さあ行くぞ”と声をかけたら君は”さあ来い”と元気な声を出せ」
 ノボさんは十メートルばかり離れた場所でボールを手にした左手を空にかざし、その腕をぐるぐると回して、
 「さあ行くぞ」
 と大声を出した。・・・」

 ・・・七月二十三日、喀血がおさまった子規は神戸病院を出て、須磨の保養院に移った。
 病気が治ったわけではない。症状がおさまっただけであった。
 約一ヶ月の養生であった。
 この間、須磨の地名から思ったのだろう源氏物語を読み、得るところがおおいにあったと口にしている。子規らしい養生のやり方である。
 保養院に入ってからは虚子も東京に戻り、子規は一ヶ月を一人で過ごす。
 虚子が神戸を去る前夜、彼への感謝を表して席を設け、その席で子規は虚子に伝える。
 「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。(さいわい)にあしは一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かあしにもわからん。長い前途を頼むことはできんと思う。それにつけてあしは自分の後継者ということを常に考えておる。せっかく自分のやりかけた仕事も後継者がいなければ(くう)になってしまうぞな。あしには子供がない。親戚に子供は多いが、どの子もあしの志とは(ちご)うとる。そこでおまえには迷惑かもしれないが、あしはおまえを後継者と決めておる」・・・
 
 ・・・碧梧桐が虚子とともにロンドンの漱石に子規の死を報せる手紙を出したのは十月三日の事だった。
 すでに子規の死を報告した「ホトトギス」はロンドンに送られていたが、雑誌と手紙のどちらが早く届くのかわからないために二人は手紙を書いた。

 子規の臨終の様子を二人はこのように書いている。


午前一時頃(九月十九日)、余り静かなりとて不図(ふと)手を握り見しに己にこと切れ居りしといふ有様にて候。到底は覚悟致居候ひしも、かく急な事にはとも存ぜざりし者多かりしに、実に何人も悲痛驚愕の外無之候(中略)、先日浅井先生帰朝一度御尋ね披下候て大兄の御近状をも聞きたる様子に候。実は御帰朝の日を待ち焦がれしものならんと、何事も悲しみの種と相成申候。
漱石がこの手紙をクラパム・コモンの下宿で読んだのは十一月下旬だった。
十一月三十日、漱石はすでに冬の寒さにおおわれたロンドンの下宿のストーブのそばに佇んで、五作の句を作った。「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題しているから漱石はこの夜一晩亡き友をしのんで句作をした。

 筒袖や 秋の柩に したがわず

 手向くべき 線香もなくて 暮の秋

 きりぎりすの むかしを忍び 帰るべし


 きりぎりす・・・の句はおそらく松山で二人で暮らしていた時に、どこかの草原を子規と散策したのだろう。その子規の姿とべーすぼーるに夢中だった若き日の子規の姿が草を飛ぶ夏の虫のように思えたのではなかろうか。・・・

 2014/12/14 (日) 金津奉行平本良充

 誘われて、生涯学習館へ行った。関章人氏による講演会(表題・金津奉行平本良充と北潟)が開かれたためである。

 以下は語りの骨子です。

明和2年(1765)12月、福井藩が、夏の出水による領内の損傷高9万石余を、幕府に届け出る。

明和3年、福井城下で大火災、侍家92軒、町家2,676軒が焼失し死者16人が出る。この大火の救援資金として、10月に在方(村方)に御頼金(依頼金)を命じている。この年も凶作。

明和4年、前年に続く凶作で、米が不作米価が急騰、三国町では廻船問屋で米穀商の尾張屋後呂五郎兵衛家が打ち壊しにあう。

明和5年2月、福井藩主松平重富が、江戸からの帰国費用の調達のため5万5千両の才覚金(御用金)を課す。これが大一揆の引き金になる。

3月22日、町方の困窮者が100人、200人と徒党を組んで有力商人でもある町組頭に救米を要求。

3月24日、村方の百姓が行動を起こし、福井藩御用達で札所元締めの美濃屋や極印屋などに押しかけ食事を強要し、古い農具を質に取れと迫る。

3月25日から打ち壊しが始まる。25日が約700人、26日が2千人、28日が7千人にふくれあがる。藩は初めは弾圧の体制を取るが、一揆勢の圧力に押されて入牢者の釈放に応じたが沈静化せず、29日にはピークの2万人に達した。2万人と言えば福井城下の町方人口に相当する人数になる。

3月29日、藩の最上級の家柄である高知席の4人の代表が、東西本願寺掛所(別院)で、一揆側の首脳を集めて面談し、一揆側の20項目に応じることを伝えた。

4月1日、これで城下での騒動が落ち着いた。

4月3日、吉崎で見谷屋の打ち壊しが起きた。これが一揆の最後となる。

 ・・金津奉行奈良忠左衛門が、「支配下の取扱よろしからず 役所向しまらず 其上御城下町筋百姓共立入り候節 是又心得違も相聞へ 重々不届きの事に候。是に依て役儀御取上 大番組へ仰せつけらる」と降格更迭された後任の奉行として着任した。
 注 語りの際に使われた資料です。


 2014/12/13 (土) もう週末か

 伊集院静著「ノボさん」-2
 ・・・七月二十三日、喀血がおさまった子規は神戸病院を出て、須磨の保養院に移った。
 病気が治ったわけではない。症状がおさまっただけであった。
 約一ヶ月の養生であった。
 この間、須磨の地名から思ったのだろう源氏物語を読み、得るところがおおいにあったと口にしている。子規らしい養生のやり方である。
 保養院に入ってからは虚子も東京に戻り、子規は一ヶ月を一人で過ごす。
 虚子が神戸を去る前夜、彼への感謝を表して席を設け、その席で子規は虚子に伝える。
 「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。(さいわい)にあしは一命を取りとめたが、しかし今後幾年生きる命かあしにもわからん。長い前途を頼むことはできんと思う。それにつけてあしは自分の後継者ということを常に考えておる。せっかく自分のやりかけた仕事も後継者がいなければ(くう)になってしまうぞな。あしには子供がない。親戚に子供は多いが、どの子もあしの志とは(ちご)うとる。そこでおまえには迷惑かもしれないが、あしはおまえを後継者と決めておる」・・・
 それはさておき
 有権者一人あたり六百円の血税を投入しての歳末無駄選挙で、友人・知人との話題にもさっぱり登らない。
 しかし、投票率が下がれば与党・自民党に有利と自身が言っているのだから、そうさせないためにも、明日は投票所に行く。
 大雪が降っても、重装備で行く。

  


 2014/12/12 (金) 飲んだ しゃべった 笑った

 昨晩は、芦原温泉において、「ふるさと語ろう会」メンバーの殆んどが集まっての忘年会。
 顧問の作家・中島道子さんの講演が終わってから酒宴となったが、ぼくは芋焼酎を軸によく飲んだ。ついでによくしゃべったよく笑った。カラオケセットがなく、自慢の喉を披露することのできなかったのが、唯一の心残り。

 いもしょうちゅう 日頃の憂さを 忘れさす (ぎゅう)





 明けて、きょうの午前4時に自宅を出た。重装備に身を包んで、雨の降るなかを自宅から温泉街までひたすら歩いた。勿論、愛車「ケトラ」をとりに行くためだ。

 暗闇のなかから、突然犬が現われた。腰を落とし低く身構えてうなる。攻撃態勢であることは、瞭然だ。

 いぬうなる わが人生も おしまいか (ぎゅう)

 しかし、その時、犬が長い手綱に引かれているのに、気が付いた。背後から現れ、「なんや、まきちゃんでないんか」と言うその手綱男は元議員の某氏だった。
 余談だが
 帰宅して、お袋から小言を言われた。「おまえの事務所は、沢山の女性がいつも来るんやから、清潔にしとかなあかんよ。床やテーブルを磨いとかなあかん」と言われた。

 
 2014/12/11 (木) 熱々珈琲を飲みながら

 <
「ふるさと語ろう会」会員のみなさんへ
 本日の忘年会は、6時受付開始。6時半から記念講演そして酒宴の順となっております。>

 2014/12/10 (水) きょうは手話講習

 
今読んでいる伊集院静著「ノボさん」は、去年12月に発行された最新作で、ノボさんとは正岡子規のこと。
 この小説家としては珍しく明るい本で、司馬遼太郎著「坂の上の雲」を思い出させる。

 副題「小説 正岡子規と夏目漱石」から伺えるように、人好きな子規は人嫌いな漱石を会う度に評価していくようになった。
 写生俳句で有名な子規は、越前は幕末の歌人・橘 曙覧を世に送り出した人としても有名だが、脊椎カリエスで病床に伏すまでの子規をべーすぼーるにのめりこんだ健康青年として描いている。これは伊集院が野球選手であったからこその手腕に拠る。

 例えば173ページ
 「・・・乗五郎は何やら物理学の講義を聞いているような気分だった。しかしそれは奇妙な快感を持って乗五郎の耳から身体の中に入ってきた。
 ノボさんの話す言葉も伊予弁とは違って、どこか東京の匂いがした。
 「試合は九人と九人で対決する。べーすぼーるは言わば合戦のようなもんぞな」
 「合戦ですか?」
 「そうじゃ、背の高さと同じじゃ。攻める者と守る者に分れて試合は進行して行くんじゃ。攻める時は一気呵成に相手の投げ手を倒すんじゃ。守る時は堅固に相手につけ入る隙を見せんことじゃ。それがべーすぼーるで勝つ秘訣じゃ。他にもいろいろ戦法はあるが、まずは基本を身体で覚えることが肝心じゃ。さあ、少し練習をしよう」
 乗五郎はノボさんのべーすぼーるの説明を聞いて、これまで知っていたどの遊びよりも面白そうに思った。
 ・・鍛兄やんが面白いと言うとったが、どうやら本当らしい・・・。
 乗五郎はボールを手に少し離れた場所にむかうノボさんの背中を見ていた。
 楽しかったのはそこまでであった。
 「乗五郎君、べーすぼーるをするのに大事なことは大きな声を出すことぞ。あしがこれから、”さあ行くぞ”と声をかけたら君は”さあ来い”と元気な声を出せ」
 ノボさんは十メートルばかり離れた場所でボールを手にした左手を空にかざし、その腕をぐるぐると回して、
 「さあ行くぞ」
 と大声を出した。・・・」

 2014/12/09 (火) 一般質問

 
昨日の朝、所用で市役所に行ったら、議員ランプが全員点灯している。「そうか、今日は12月議会・一般質問の日だったのか」ということで、議会事務局に行き、興味のあるものだけ傍聴することにした。

 通告書を見ると、「人口減少対策について」の項目が断然多い。全国津々浦々の地方都市で社会問題になっていることでもあり、自治体としての対応を聞く議員が多くなる(三人居た)のもわかるが、行政側の答弁としては、どうしても「先ほど、〇〇議員にも申しあげましたとおり云々・・」
と、言葉がだぶってしまう。これは時間の無駄遣いであるし、傍聴者側にとっては退屈な時間帯にもなる。質問者を一人にしぼる配慮が必要だと思った。余談だが、十年ほど前の記録では、出生率全国ナンバーワンは、鹿児島県和泊町だった。和泊町は沖永良部島にある。そしてこの島はぼくにとって、「エラブ イン マイマインド」なのである。

 Y議員(若い方)が、「景観まちづくりについて」を質問した。質問主旨は、「全国どこの都市ものっぺらぼうな様相を呈しているなかで、JR芦原温泉駅前はもともと宿場町として栄えたその歴史を彷彿とさせるものをめざさなければならない」というものだった。
 ついでに言うなら、昔の北陸(ほくろく)道は、南金津の六日町を通り、市姫橋をわたり北金津へ入ってから西側へターン、遊郭街を眺めつつ坂ノ下八幡神社界隈を抜けて加賀方面を目指すというもので、ここで突如地元自慢になるが、坂ノ下八幡神社境内界隈は、故志田画伯によれば「金津のまちうちで、唯一江戸時代がそのまま残っている風景である。

 ついでに言うと、竹田川はまちの中央を流れ、川で、北金津と南金津に二分されている。こういうまちは珍しいそうで、その竹田川は庶民が洗濯をする場であり荷揚げ・荷積みをする場でもあった。要するに河戸の存在。それを抜きにして竹田川は語れない。

 Y議員(年寄りの方)が、「まちづくり事業に伴う、ワークショップについて」を質問した。質問主旨は「JR芦原温泉駅前のおもてなし建物の建設に関して、ワークショップのメンバーの意見が十分に反映されていない。どうしてそうなるのか」というもの。 
 質疑のなかで、「部長や市長はワークショップに出たことがあるのか」との問いがあった。
 市長は「自分が参加すると、メンバーが自由に意見を発信しにくくなるそうなので出たことはない」と答えていたが、そうかなあ。
 誰が出ようと自由な討議であってしかるべきなのだ。であれば、市の中枢の耳に直接入る方が、発信に熱が入るというものではなかろうか。

 最後にT議員が、「市長2期の自己評価と次期の市政抱負について」を聞いた。
 市長は、来年4月の市長選への挑戦をあらためて宣言し、2期の自己評価と3期目の展望を滔々と語ったが、「?」と思ったのは、新聞記者。記者は議場内の傍聴席へ入らずに、外で館内放送を聞きながらメモをとっている。それくらいなら、わざわざ3階まで上がってくることもない。1階ロビーで聞いていりゃ充分だ。
 記者の取材は、声だけの取材ではない。
 語る時の身振り手振りや目力を見ることが、取材の源泉になるはずだ。
 とまあこんなことを書いていたら
 とんぼさんが・丸岡藩騒動記 作造(1)のデーターをもって来たので、「トンボ作品リスト」にアップしました。お読みください。

 ということはさておき
 本日四人目の来訪者・Nさんの右手にあったものは、霧島酒造の高級焼酎「吉助」

               

 ぼくは、最高に感動している。

 
 2014/12/08 (月) 新しい週の始まり

 
昨日の午後は電気ストーブにあたりながらテレビで福岡マラソンを見ていたのだが、CMの際にチャンネルを変えたら、全日本バドミントン選手権・女子決勝をやっている。そして、勝山高校二年の山口がストレート勝ちで優勝だ。今回は全試合通じて1セットも落とさなかったのだからたいしたもんだ。スマッシュ攻撃が強烈で多彩だ。状況判断が適格で守備力もある。どれだけ強くなっていくんだろう。

 勝山で思い浮かべるのは、先ず天龍源一郎。プロレスラーを息子に持つ女性に誘われて、福井市体育館へ試合を見に行ったことがあるが、汗を流してブッチャーと殴り合っていた。

 次に思い出すのは、バレーボールの三屋裕子。十数年前、講演で金津中学校へやって来た。玄関で靴をちゃんと脱ぎ揃えたし、応接室での物腰も柔らかだった。

 それはともかく、杉原永綏著「敦賀の遊郭について」を紙データーから電子データーにやっと変換し終えた。長文なので、キーボード叩きに大変疲れたが、夕陽巴浪のことや、文中挿入の哥川俳句のことなどで思い出されることが多く、退屈しなかった。
 暇な方はお読みください。


 「敦賀の遊郭について  杉原 永綏」


 「はじめに」

 遊郭は世界いたるところに存在していた。古代ローマ帝国の時代にも存在し、コンスタンチヌス帝(二八〇ごろ~三三七)は、財政難から遊女にまで税をかけたとの事である。また、国家が許可したいわゆる公娼なるものも日本だけではなくて、欧米各国に存在していたのである。かの有名なヂュマ・フェスの小説「椿姫」の女主人公マルグリッド・ゴーチェは、フランスにいた実在の公娼をモデルにしたものである。
 ところで、日本の遊女は古く万葉の時代にも存在し、
 里人の見る目はづかし。左夫流児に惑はす君が宮出後ぶり。
 と歌われている。その意味は、里人の見る目が恥ずかしい。左夫流児に迷っておられるキミの出勤する後姿は。この左夫流児とは遊行女婦遊女の名である。(武田祐吉、万葉集全注釈十二)更に平安時代から鎌倉時代には妓王・妓女・仏御前・白拍子などの名で、義経の愛妾静御前も白拍子、つまり遊女であった。
 ついで室町時代にも、白拍子・傀儡子などの遊女がいた。足利十二代将軍義春の大永八年(一五二八)、幕府は傾城局という役所を設けて京都のこれらの遊女から、年間十五貫の税を徴収して幕府の財源にあてたということである。(一九八〇・四)江戸時代になると幕府の厳しい統制の下に、江戸の吉原、京都の嶋原、大坂のといった三大遊郭が栄え、遊女にも様々な階級が生まれ、大名・豪商の大尽遊びから、ささやかな庶民の享楽まで、世界にかって類をみない一大歓楽境が出現したのである。そぢてこれはまた地方の小都市敦賀にも影響を与え、敦賀港の繁栄と共に、敦賀遊郭も亦殷賑を極めたのである。その敦賀遊郭が姿を消してから三十数年がたった。戦災・復興・都市計画・町名変更、これらは昔の敦賀を一変した。天神さんは元のところに復興鎮座ましますものの、新町はどこかへ消え失せてしまった。今、限られた資料と記憶をもとに、かって栄え敦賀遊郭の歴史の一端を述べてみたいと思うものである。

 「一」
 敦賀の遊女のことが、はじめて文献に見えるのは「太平記」ではなかろうか。「太平記」(岩波古典文学大系)巻第十七、金崎船遊事付白魚入船事の中に「春宮盃ヲ傾サセ給ケル時、嶋寺の袖ト云ケル遊君御酌ニ立テリケルガ・・・」とある遊君が遊女のことで、嶋寺とは戦前の町名では大嶋、今の元町である。南北朝動乱の時代、既に敦賀の嶋寺に遊女がいたのである。敦賀郡誌によれば疋田記に「慶長十年(一六〇五)頃、遊女町嶋寺町より三ツ屋六間町に移る」とあり、江戸初期に戦前の川東の遊郭が出来たようである。(この疋田記の所在は明らかでない。)
 ついで、近松門左衛門(一六五三~一七二四)の浄瑠璃「けいせい反魂香」に絵師狩野元信(一四七八~一五五九)が名木「武隈の松」を描きたいと思うくだりがある。それは近江国の守護佐佐木源氏の嫡流六角左京ノ大夫頼賢が、足利将軍の命をうけて、日本中の松の名木の絵を集めることになった。絵師狩野元信は、名前だけは残っているが今はわからない奥州の「武隈の松」(注1)を描きたいと天満天神に祈る。即ち「・・・然るに奥州武隈の松と云ふ名木は。いにしへ能因法師さへ跡なくなりしと読みたれば。(注2)名のみ残って知る人なし我是を書きあらはし。誉を得させ給はれと天満天神を祈りし所に。武隈の松の絵を見んと思はゞ。敦賀気比の浜辺に行くべしと・・・」
 (注1)奥州の武隈の松は宮城県岩沼市の城館。武隈館にあったと言われる二株の姿よき老松で、既に平安中期にはなくなっていたという。
 (注2)御拾遺集十八、能因法師(平安中期の歌人)の歌に、「武隈の 松はこのたびあともなし 千歳を経てやわれは来つらむ」 
ということで、狩野元信は敦賀へやって来て武隈の松を訪ねるが、誰れも知らない。ところが”天神さんのお告げで武隈の松を探しているのだ・・・”と言うと、相手は遊女町の天神さんを思い出し、それなら敦賀の郭に名高い遊女「松」(遊女の最上位太夫を松とも呼んだ)がいるというわけで、狩野元信は遊女の「松」に会うのだが、この遊女「松」は実は絵師の大家、土佐光信の娘で、光信が天皇の勘気に触れて浪人の身となり、娘も遊里に身を沈め、諸国を転々として敦賀へ流れつき、「遠山」と名乗る者であることがわかる。そして武隈の松はの図は土佐家の秘伝の絵で、誰れにも漏らしてはならないことになっているのだが、「松」即ち遠山も夕べ不思議な夢を見た。それは天神が現われ「狩野という絵師下るべし。武隈の松を伝授せよ父が出世の種ならんと。」ということであった。そこへ狩野元信が訪ねて来たのだから不思議な夢は正夢であったと、狩野元信にいろんな立ち姿を示して武隈の松を伝授するのだが、これが縁で二人は結ばれ、狩野元信は土佐光信の女婿となり、絵所の預かりになるという筋である。

  「二」
 さて、この「遠山」のいた遊郭が天神さんを中心とした(注3)六軒町・新町・三ツ屋・森屋敷で、総称して四町街といゞ、四町で青楼二百余軒も軒を並べていたらしい。
 (注3)慶長十年(一六〇五)頃、嶋寺から天神さんを中心とした地域へ遊郭が移ったので、近松門左衛門は時代的には矛盾するが狩野元信(一四七八~一五五九)をこの天神の遊郭に登場さしたのであろう。尚この天神さんの本殿西横に戦災で焼けるまで幹が二本に分れ、松葉も他の松と違い細かく優雅な姿の「武隈の松」(樹齢凡そ五〇〇年位)があり、石碑が立てられていた。近松の頃は樹齢三〇〇年位であったろう。けいせい反魂香をもとに姿よき松であったので、いつの頃かこの松を武隈の松と名付けたのであろうか。 
 天和二年(一六八二)に敦賀で書かれた「遠目鏡」によると、見っや「三っ屋」町のあげ屋やくつわ、六軒町のくつわ等、それぞれ廓の名前と遊女の数も記している。そして見つや町と六軒町で遊女の数は〆て上女郎三十五人、下女郎四十二人おり、その他梟町(森屋敷町(注4)の延長で、戦前の浪花町、石田呉服店横の辻子を入った通り)に女七十人余、出村(松栄)に女五十八人余、浜出(蓬莱の浜町か?)に女百人余と記されていて、これらの女も売女(遊女)であったらしい。
 (注4)森屋敷とは、江戸時代の天神さんの神官森氏(後に管森と改む)の屋敷のあったところで、戦前の常盤町の中心部にあった。
 敦賀は港町であるため、敦賀遊郭の名は日本中に知られていたらしく、畠山箕山が延宝六年(一六七八)頃著した江戸時代の遊里案内書「色道大鏡」にも「敦賀の遊郭は六軒町といふ。挙屋の居る所をみつやといふ。傾国の遊料十六匁、次は十匁宛なり、端女は六匁宛。」とその料金も記している。ところで「遠目鏡」や「色道大鏡」に見える六軒町とは六間町とも書かれるが、その名の通り六軒の廓があったところである。戦前は天神さんの前から港へぬける通りを正面」町、天神さんの並びの通りをおもて町といゝ、六軒町はおもて町を天神さんを右手に金ケ崎の方へ少し進んで最初の辻子を右へ入ったところである。また、みつやとは三ッ屋とも、見つやとも書き、天神さんの裏の鳥居(今はこの鳥居のすぐ横に風呂屋があり、昔の面影は全くなくなっている)の前を西の方へ梟町と交差した通りである。挙げ屋(揚げ屋)は客が遊女屋から太夫・天神・格子などの高級な遊女(上女郎)を呼んで遊んだ店のことであり、くつわとは遊女を抱えておく家で、遊女屋のことである。江戸時代にはこのみつや町に西側に揚げ屋、くつわが軒を並べていたようである。
 宝暦年間(一七五一~一七六三)の末頃までは、敦賀遊郭に青楼太夫という遊女の最上位のものがいたようである。この青楼太夫が遠山即ち松であろう。上方や江戸では最上位の遊女を太夫或いは花魁といゝ、太夫の次を天神といった。花魁とはおいらの姉女郎がおいらんとなったということである。
 天神とは揚代(遊び料)が二十五匁であったので、天神さんの縁日の二十五日と揚代二十五匁とを結びつけて天神といったらしい。しかし「色道大鏡」では、敦賀遊廓の遊び料の最高が十六匁だから、二十五匁の天神は敦賀にはいなかったのではなかろうか。格子とは天神の次で、遊女屋には出格子がはまっていて、そこに顔を並べていた遊女をかく言ったのである。それ以下の遊女は下女郎で、店の前で客引きをしたようである。
 敦賀の遊女は別名干瓢といわれた。干瓢はむかし夕顔(注5)といったことから遊女は夜、人間に顔をさらしたもので、つまり下女郎のことであろう。
 (注5)久隅守景筆「夕顔棚納涼図屏風」を見ると、夕顔とは干瓢のことで、棚から大きな干瓢の実が下がり、その下で農家の夫婦が子供と夕涼みしている。この実を薄く紐状にむいて乾燥したものが、すし等に用いる干瓢で、花を観賞する朝顔の一種の夕顔とは別物である。

 「三」
 戦前、敦賀遊郭を総称して新町といっていた。しかし新町とは敦賀郡誌によると、六軒町裏の塩入田を寛文元年(一六六一)から埋め立て、寛文十年(一六七〇)に一町をつくって新町と名付けたと記している。いわゆる戦前の新町には、挙げ屋とかくつわという名称はなくなり、また太夫・天神・格子の身分もなく、芸者屋と女郎屋に別れていた。芸者屋は芸者(芸子ともいう)を抱え、芸者は芸を磨き、お座敷へ呼ばれて芸を売るのが商売であり、芸者をお座敷へ斡旋する事務所、即ち見番(検番ともかく)もあった。しかし女郎屋は売られてきた女を女郎(娼妓ともいう)として抱え、その家で女郎たちに公然と売春をさせるのが商売であった。芸者屋も女郎屋も入口にその家の家紋と屋号入りののれんが下がっていたが、特に女郎屋には、のれんをくぐると壁に女郎たちの額入り写真が飾られていて、その下に女郎の源氏名(呼び名)が書き込まれていた。女郎たちの部屋は大概二階で、階下中の間辺りに女将が夏でも長火鉢の前に座っていて、女郎たちに采配をふるっていたようである。
 女郎はこの女将を「おかあさん」と呼んでいた。大きな女郎屋には七~八名の女郎が、普通の女郎屋で五~六名の女郎を抱えていたが、小さいのは一人の女郎で営業しているところもあった。女郎たちは性病に冒され、客にも感染させる恐れがあったので、女郎たちの性病を定期的に検診する常盤病院や、女郎だけが入浴する銭湯もあり、芸者や一般人と区別されていた。更に女郎は不浄者とされ、付け馬(客についてその家まで行って遊興費の不足分を取り立てる)の時など神社の境内は通れず、天神さんの横に女郎の通る不浄道まで作られてあった。
 戦前の敦賀遊廓には芸者屋として、六軒町の藤村・松葉屋・新町の品の家・増田・増来・金八・辻福・みつや町の鈴花・金菊・友の家・増光・松林亭などが有名であり、女郎屋としては、新町の新月楼・案房楼・石見楼・吉寿楼・森屋敷町の立石楼、みつや町の安田楼など、楼のつく家が多かったようである。そしてこの敦賀遊廓には、回り舞台を備えた「敦賀座」、また講談や浪花節(浪曲)・万歳などのいわゆる寄席専門の「楽席」、射的屋やビリヤード(玉突)、カフェー、料理屋など、多種多様な飲食店も軒を並べ、まさに港つるがの歓楽境であったのである。

 「あとがき」
 いつも堅いと言われている私が、遊郭をとりあげたので驚かれた方もあると思うが、もともと遊郭との係わりは、わが先祖の三国町下真砂、永正寺以来のことである。永正寺は三国町下真砂、即ち出村の一角にある寺で、出村といえば三国遊郭のあったところである。三国小女郎として有名な俳人豊田屋哥川(安永五年(一七七六)七月六十一歳で死)の俳句の師は、わが先祖永正寺十七代住職杉原永言、俳号夕陽
巴浪(はろう)である。哥川は
 奥そこの 知れぬ寒さや 海の音
 稲妻や 開ける妻戸に 見失ひ
 の名句を残している。この出村の永正寺で私は、旧制三国中学校時代の五年間を過ごし、いつも遊郭の中を通って通学したものである。また敦賀の家は、父永存が天神さんの神主をしていて、遊郭に氏子総代や世話役がいたので、子供の頃よく手紙や回章をもって使いに行かされたものである。そのようなことから、一度も遊びに行ったこともない遊郭ののれんの中や遊女の写真、女将の長火鉢に座っていた様子などが、子供心にいろいろと植えつけられていったのである。どうして三国でも敦賀でも遊郭と関係が深かったのか、父も不思議がっていた。
 敦賀の遊郭を書いて見て、芸者の揚代や女郎の遊び料が、ショートと泊まりで異なるが、いくらであったのか、また女郎はどこから売られて来た者が多かったのか、いくらで買ったのか、どの家に芸者が何人、女郎が何人いたのかなど、これらを聞こうにも知る人もなく、ただほんの敦賀遊廓の歴史の一部を紹介したに終わったことを残念に思う。
 尚、このような標題のものを学校の研究収録に発表するのは如何とも考えたが、あくまでもこれは日本の世相史の一部門であり、純粋な学問であるので敢えて発表することにした。
 最後に、地図作成に当り、当時遊郭に住んでおられた二・三の方からいろいろとご教示をいただいた。これらの方々には厚く感謝申し上げる次第である。
 遊郭が消滅して三十数年を経過した今、記憶をもとに昭和期の遊郭の地図を再現することは至難のわざであることを痛感した。或る人はA楼が新町の北側にあったといゝ、或る人は南側といゝ、また或る人はとんでもない方角にあったといゝ、また、どこの隣りであったかについては甚だあいまいで、人の記憶は余り当てにならないものである。だがこの地図は出来得る限り正確を期したつもりであるが、まだ幾らか間違いがあろうかとも思う。間違いに気がつかれた方はお知らせいただきたい。またの機会に訂正したいと念じている。
 
注:敦賀遊廓地図

 2014/12/07 (日)  昨日の朝は雪のなか

 朝7時半に事務所を出発。某古民家のある目的地に到着するまでに二時間強を費やしたが、その(かん)に乗用車が転覆しパトカーが来ている現場を四ヶ所見た。

 

 目的地が標高何メーターなのかはわからないが、岐阜県に近いことだけはわかる。外気は明らかに氷点以下で、風景はモノトーン。車から降りると牡丹雪が舞い、風のうなりのなかに死者の声が聞こえてくる。

 

 

 積雪は二尺くらいか。
 半マヒの足で雪道を歩いたが、気分がいい。何故なら、倒れても新雪面に投げ出されるだけで怪我の心配がなく、安全が担保されているからだ。

 2014/12/06 (土) 雪かきを終えて

 昨日の午後二時、ぼくはJR芦原温泉駅の駐車場にいた。衆院選福井一区の共産党候補者・金本さんが立会演説に来たためである。と言っても、ぼくは完全な共産党シンパではない。共産党の政治的主張は、他の野党のような奥歯にものがはさまったような言い方ではなく、わかりやすい。勿論、そのぶんだけぼくにとって「嫌いやなあ」と思われるぶんも浮き彫りにされている。

 

 15年以上前に、県聾唖協会の依頼で、彼女の立会演説会を手話通訳したことがある。会が終わってから、随分ながいあいだ、彼女と話しこんだ。社会党支持のぼくと彼女とでは、距離があるなあと思ったものだが、その話合いがなつかしくて、傍聴に行った次第。
 司会というか応援演説者の山川あわら市会議員、どうもご苦労さまでした。

 それはともかく
 今朝は池田町出張だ。仕事で行くのだけれども、合間に、雪が深々と降りしきる山国の冬の原風景をしっかりとカメラに収めてきたい。

 
 2014/12/05 (金) 昨日の一日

 昨晩は7時に布団に入った。うつらうつらしていたら、二階から笑い声がかすかに聞こえてくる。妻のところに友人たちが集まっているみたいだ。
 笑い声が耳に入るとほっとする。救われるような気分になる。ぼくも笑う人間にならなければ、と思った。

 布団を抜けだし、テレビをつけると、「今年のニュース」が、例の「作曲家・佐村河内某の聾者なりすまし事件」を報じていた。
 映像はNHK報道のいいかげんさを突いていたのだが、なるほどと思ったのは、識者が「障害者手帳取得のための聴力検査の時に脳波を検査すれば、正確に判断できる」と言った時だ。
 以前、知人聾者に障害者認定検査手話通訳を頼まれて、耳鼻科医院へ同行した。医師は検査機器のスイッチを押してデシベル数を上げながら、機器の針を見ている。検査はそれで終了した。

 しかし、考えてみると、どこまで音をキャッチできたかは、自己申告である。嘘をつく人がいるかもしれない。だけど、その時の脳波を調べれば、答えの真否がわかる。現在の医学レベルでは、そういうことも可能なんだろうなあ、と思った。

 余談だが
 そのニュースのなかで、某コメンテーターが、「佐村河内某と本当の作曲者・新垣某は恋人どおしとの噂があった」と発言した。ぼくの友人に、若い頃に中央公園で男に襲われた男がいて、その男の言うことにゃ、男女間の愛情には砂上の楼閣のような面があるけれども、男どおしの愛(ホモ)は、永遠の絆を希求する度合いが強いそうだ。
 確かに、17、8年もの間、あんなに大きな秘密を共有するなんて、特別な関係でない限り、普通は無理だ。

2014/12/04 (木) 昨日の一日 

 午後は、市庁舎観光商工課に於いて、語り部育成についての打合せ。終わってから徒歩で自宅へ戻ったが、道中うっすらと雪が残っていて足元がとられそうだった。
 帰宅後、お袋の晩飯おかず買い物で、近くのスーパーへ愛車「ケトラ」を駆使して同行。「ケトラ」は軽トラのリアルタイム4WDなのでスノータイヤに変えなくても、少々の雪では全く問題ないのである。道中、お袋が「鈴木さんと藤野さんが来たよ」という。俗な話だが、衆院選が始まったのだ。鈴木さん、以前は民主党だったが、今は維新の党。自民党ぎらいのぼくとしては、自民以外に勝ってほしい。

 夕刻、二人の女性が来訪。普段の来訪者は男性、それも年寄りばかりで、応接に気を使うことは全くないのだが、さすがに妙齢の美女ふたりとなるとこちらも緊張する。床のゴミを拾い、テーブルを整理し、トイレを磨いてから応対した。
 話のテーマはまたまた選挙のこととなった。「県議も市長も誰がなってもかわらんやろ。あわら市議会もドーンと定数を減らし、報酬も2割はカットすればいいんや」という方向へ話しは行ったが、現金なもので、市議を辞めたぼくはおおいに賛成。

 彼女らが帰ってから、十数年ぶりで開高健を読む。58歳で逝った開高がもし生きていれば、今年83歳で、高倉・菅原と同世代だ。
 開いた本は「珠玉」・・。刺激的な文体は相変わらずだった。
 釣り人でもあった彼のこの本の例えば77ページ。
 「・・しぶとく、流れ落ちる卵を食べようと待ちかまえているのが見える。岸にうちあげられたサケの死体にはハエがたかって無数のウジがどろどろの肉のなかにひしめきあっている。それを水に落とすとウジたちが乱舞するが、たちまち無数の小魚が集まってきて争いあって食べにかかる。その小魚にはサケ、マス、イワナの幼魚紋であるバー・マークがくっきりとついているので、死んだサケの一代前のサケの子供たちではないかと思える。サケは親を知らないで生まれ、子供を見ずに死ぬ魚である。サケの死体はウジをつくりだすけれど、様々な栄養に分解して川へ流れ、プランクトンを生み出し、川をミルクの流れに変えるのであろう。それを食べて仔魚が育ち、海へ旅立っていく。川は土を養い、キノコを育て、虫を集め、その虫を食べる鳥やネズミをふやして森を看護する。一切が連関しあい、もつれあい、からみあい、生は循環しあって、増もないが、減もない。形が変るだけである。それがまざまざと肉眼で見える。輪廻は肉視できる。朱が発端であり、終焉であった。・・」

 2014/12/03 (水) 焼刃のにおい

 津本陽著「焼刃のにおい」の時代背景は幕末だ。紀州和歌浦外浜の漁師・長右衛門は、法福寺の僧侶・北畠道龍に誘われ、12歳の時に共和軍隊に入る。道龍は、紀州家中で執政たちに重視される文武両道の傑物で、共和軍隊とは高杉晋作がつくった奇兵隊の佐幕版みたいなものだ。母子二人で暮らす長右衛門は、明日をもしれない暮らしから脱出するために共和軍隊に飛び込み、無類の剣筋を獲得していく。そして、幕軍の長州征伐の際にその名を広く長州軍に知らしめす。

 面白かったのは、坂本龍馬との出会い。
 紀州藩所有の軍艦・明光丸が武器調達のために長崎へ向かうことになり、長右衛門らは勘定奉行の護衛隊士として同乗する。が、明光丸が備中沖にさしかかった或る夜、突如、小型の蒸気船にぶつけられる。明光丸士官は相手・伊呂波丸の乗組員を救出するが、その乗組員のなかに、以前は明光丸に乗っていた伝五郎がいた。その伝五郎から、伊呂波丸の万国航海法違反の詳細を聴いた明光丸側は、のちの損害賠償交渉の際の証人として、彼を保護・隔離する。伊呂波丸の乗組員は海援隊隊士たちで、その領袖が、当時薩長連合を画策して有名人となっていた土佐脱藩浪士・坂本龍馬であることもわかった。

 長崎での賠償交渉で、伊呂波丸側は驚くべき態度に出た。自分たちの非を一切認めず、あろうことか明光丸側に対して数万両の賠償金を請求したのである。真実が明るみに出たら、切腹を申し付けられるかもしれない龍馬は、論理になっていない論理の大声でわめくばかりであったが、明光丸側最高責任者の勘定奉行・茂田は文人故に気が弱く(このあたり高杉晋作とは全然違う)、伊呂波丸側は屈してしまう。以後に勝海舟の裁定を待つという態度だ。

 明光丸は紀州に帰るが、証人としてかくまっていた伝五郎を暗殺されてしまう。ここで長右衛門の堪忍袋の緒が切れた。
 道龍に許可をもらい、盟友・力乃助と共に京へ向かった長右衛門は、慶応3年11月15日の夜半に、龍馬が隠れ住んでいた近江屋を襲う。
 このシーンは龍馬と同席し負傷したのち、二日間ほど生き延びた中岡慎太郎の口から世に出て、何人もの歴史小説家の手で書かれてもいるが、ニュアンスの違いもあるので、そのまま書き写す。
 「・・巨漢の藤吉は、自分の体の半分もなかろう小柄な清蔵に気を許し、名札を持って二階へあがってゆく。
 そのあとを清蔵が影のようについてゆく。長右衛門が太刀を抜きはなち、右肩に担ぎ、後に続いた。
 藤吉が悲鳴とともに、龍馬たちのいる八畳間の襖に手をかけたまま倒れた。清蔵は藤吉の右肩から大袈裟に斬り下げ、一刀で致命傷を与えた。  
 。長右衛門が左手で襖を開け放つ。座敷は行灯のほの明かりで、右方の床を背にした龍馬の顔が見えた。左右の屏風を背に、裂けんばかりに眼を見張っているのは中岡であろう。二人の間に大火鉢がある。
 坂本龍馬が膝もとの短銃に手をのばそうとするのを見ながら、長右衛門は股を大きくひらき、両腕を思い切り伸ばし、左手の男の顔を狙い、横一文字に刀を打ちこみ、そのまま右へ振って龍馬の額へ打ちこむ。
 龍馬は長く尾を引く悲鳴を放って倒れた。
 「わいにもやらひてくれ」
 力乃助が跳びこんできたので、長右衛門は入れ替わった。
 襲撃は、またたくうちに終った。三人は刀の血をぬぐい、鞘に納めるとふつうの足取りで、表通りに出て、ふりかえりもせず立ち去っていった。自分たちを見つめている幾つかの視線を感じたが、咎める声もおこらず、あとを追跡してくる者もいなかった。長右衛門の意識のなかに、坂本龍馬の長く尾をひく悲鳴だけが、いつまでも残響の尾を残していた。・・」

 司馬遼太郎が「龍馬が行く」で描いた明瞭・闊達な龍馬像とはなんと違うことかと思ったが、それは半分剣術家・津本の持つ矜持による違いでもあるのだろう。

2014/12/02 (火) 霰が天から降ってきた

 きょうは衆院選公示日で、来春には県議選と市長選が予定されている。
 昨日の朝は、ユース前で衆院選某候補者の応援のために辻立ちしているスタッフの激励に行ってきました。

 ところで、ぼくに興味のあるのは、市長選と同時に行われるあわら市議補選だ。現在の市議の日頃の言動や気質は十分に知っている(つもり)なので、変人が出てきてほしい。全国の流れに逆行して、女性市議が一人しかいないのも問題だ。いずれにしろ、年明けには何人かの立候補者が声をあげることになるだろう。

 敦賀遊郭③
   天和二年(一六八二)に敦賀で書かれた「遠目鏡」によると、見っや「三っ屋」町のあげ屋やくつわ、六軒町のくつわ等、それぞれ廓の名前と遊女の数も記している。そして見つや町と六軒町で遊女の数は〆て上女郎三十五人、下女郎四十二人おり、その他梟町(森屋敷町(注4)の延長で、戦前の浪花町、石田呉服店横の辻子を入った通り)に女七十人余、出村(松栄)に女五十八人余、浜出(蓬莱の浜町か?)に女百人余と記されていて、これらの女も売女(遊女)であったらしい。
 (注4)森屋敷とは、江戸時代の天神さんの神官森氏(後に管森と改む)の屋敷のあったところで、戦前の常盤町の中心部にあった。
 敦賀は港町であるため、敦賀遊郭の名は日本中に知られていたらしく、畠山箕山が延宝六年(一六七八)頃著した江戸時代の遊里案内書「色道大鏡」にも「敦賀の遊郭は六軒町といふ。挙屋の居る所をみつやといふ。傾国の遊料十六匁、次は十匁宛なり、端女は六匁宛。」とその料金も記している。ところで「遠目鏡」や「色道大鏡」に見える六軒町とは六間町とも書かれるが、その名の通り六軒の廓があったところである。戦前は天神さんの前から港へぬける通りを正面」町、天神さんの並びの通りをおもて町といゝ、六軒町はおもて町を天神さんを右手に金ケ崎の方へ少し進んで最初の辻子を右へ入ったところである。また、みつやとは三ッ屋とも、見つやとも書き、天神さんの裏の鳥居(今はこの鳥居のすぐ横に風呂屋があり、昔の面影は全くなくなっている)の前を西の方へ梟町と交差した通りである。挙げ屋(揚げ屋)は客が遊女屋から太夫・天神・格子などの高級な遊女(上女郎)を呼んで遊んだ店のことであり、くつわとは遊女を抱えておく家で、遊女屋のことである。江戸時代にはこのみつや町に西側に揚げ屋、くつわが軒を並べていたようである。→ここでキーボードを叩くと、義務感に縛られるような気がするので、これからは、インデックス・「郷土いろいろ」に書き込みます。


2014/12/01 (月) きょうから師走

 今朝の珈琲はいつものインスタントとは違い、フィルターを使っての粉珈琲にした。この方が確かに美味しい。30数年前の結婚したての頃は豆を粉にひくところから珈琲を味わったものだ。幾星霜で忙しさにかまけてそういう作業とは無縁になっていた。
 辺見 庸著「もの食う人びと」のなかに、中近東で最下層の庶民が枯れ枝を集めて珈琲を沸かすシーンが出てくるが、沸かす人の所作、鼻孔を刺激する匂いそして味そのものが絶品であることが達意の文章で描かれていたのを思い出した。


 ただ今、午後4時半。雨が降っているので建物測量に行く気にもならず、ひたすらパソコンの前で、CADに邁進している。誰とも会わないせいだろうが、気分がますます憂鬱になる。もう少し明るい人間として生きたかったが、神様はそうさせてくれない。「暗い人間として生きよ。地球上の悩みを一身に背負って生きよ」と、私に命じているに違いない。

 敦賀遊郭について②
 ということで、狩野元信は敦賀へやって来て武隈の松を訪ねるが、誰れも知らない。ところが”天神さんのお告げで武隈の松を探しているのだ・・・”と言うと、相手は遊女町の天神さんを思い出し、それなら敦賀の郭に名高い遊女「松」(遊女の最上位太夫を松とも呼んだ)がいるというわけで、狩野元信は遊女の「松」に会うのだが、この遊女「松」は実は絵師の大家、土佐光信の娘で、光信が天皇の勘気に触れて浪人の身となり、娘も遊里に身を沈め、諸国を転々として敦賀へ流れつき、「遠山」と名乗る者であることがわかる。そして武隈の松はの図は土佐家の秘伝の絵で、誰れにも漏らしてはならないことになっているのだが、「松」即ち遠山も夕べ不思議な夢を見た。それは天神が現われ「狩野という絵師下るべし。武隈の松を伝授せよ父が出世の種ならんと。」ということであった。そこへ狩野元信が訪ねて来たのだから不思議な夢は正夢であったと、狩野元信にいろんな立ち姿を示して武隈の松を伝授するのだが、これが縁で二人は結ばれ、狩野元信は土佐光信の女婿となり、絵所の預かりになるという筋である。
 
 二

 さて、この「遠山」のいた遊郭が天神さんを中心とした(注3)六軒町・新町・三ツ屋・森屋敷で、総称して四町街といゞ、四町で青楼二百余軒も軒を並べていたらしい。
 (注3)慶長十年(一六〇五)頃、嶋寺から天神さんを中心とした地域へ遊郭が移ったので、近松門左衛門は時代的には矛盾するが狩野元信(一四七八~一五五九)をこの天神の遊郭に登場さしたのであろう。尚この天神さんの本殿西横に戦災で焼けるまで幹が二本に分れ、松葉も他の松と違い細かく優雅な姿の「武隈の松」(樹齢凡そ五〇〇年位)があり、石碑が立てられていた。近松の頃は樹齢三〇〇年位であったろう。けいせい反魂香をもとに姿よき松であったので、いつの頃かこの松を武隈の松と名付けたのであろうか。