2012年01月

 1日-10日  11日ー20日  21日ー31日

2012/01/10 (火) 深夜にキシリトールを噛みながら


椎名誠の「長さ一キロのアナコンダ」を読み終えた。ぼくはこの作家の辺境徘徊的世界不思議旅を読むのが好きで、言ってみりゃあ、出不精のぼくに疑似体験を楽しませてくれるエンタテイナー。


目次からしてただごとではない。
「思考のくねくね・モグラの歯ぎしり・ワニ目と未来羊・羞恥と糞便・上か下か・樹の上の闇・宇宙人をあそぶ・超なまこ・怖いもの・持っているもの・笑う犬・長さ一キロのアナコンダ・這うもの吸うもの齧るもの・アルキメデスの螺施とカブトムシはどっちが強いか・無言飛脚がやってくる・地球発熱衰弱状態・小便の王様をたずねる旅」


何年前だったか、東京世田谷に住む妹から電話があって「椎名さんの講演を聴きに行ったんだけど、話が折り目正しく男の色気が充満している」と言っていた。


売文業のひとは文章にこだわりを持っているから、話があちこち飛んでも文章日本語が重しとして話をしっかりと下支えしている。
・・・というのは、確か故井上ひさしの言葉。
 2012/01/09 (月) 昨日の日曜日


昨日の午後1時半から、区民館に於いて坂ノ下区通常総会が開かれ、僕も一言だけ挨拶をした。


「区長の任期は1期2年で最長2期」という理事者側案が承認され、現区長の宮川さんの任期も残すところ24年度1年間ということになった。ご苦労さんです。残る1年間を頑張ってください。


総会終了後、事務所に戻り事務所の模様替えに汗を流した。入口ドアのところに和風暖簾(¥910エン)をつけたら、部屋に清潔感が出てきた。
今年の僕のキーワードは清潔。今年こそ、毎朝歯を磨き毎晩お風呂に入り毎日下着をしかえよう。ついでに洗車をしてもいい。


午後7時、盟友・達川氏が来訪。
彼は頻繁に中国大陸を行き来している。しばしば訪れている大連への夢を熱く語っていた。もう若くはないけれども、さりとてまだまだ壮年だ。「事業にリスクのあることが胸をわくわくさせる」と言っていた。
彼とは根っ子のところでの共有体験があるので、ひとつひとつの言葉に対して素直にうなづける。



大連といえば、頭に浮かんでくるのは幼年期を大連で過ごした三木卓(詩人・小説家)。


彼は何かの雑文でこういうことを書いている。
「ひとは人生の大部分を妄想に費やしている。妄想こそ意識というべきだ」。実に内面を穿った言葉だ。
当然のことながら、僕の半生も妄想だらけだった。
 2012/01/08 (日) 南京事件


年末年始の一週間は、どこかへ出かけるということもなくひたすら飲酒と読書の日々であったが、そのなかで印象に残った本の一冊が「南京事件の日々(ミニー・ウオートリンの日記)」だった。


1886年に米イリノイ州で生まれた彼女は高校時代にキリスト教の洗礼を受け、大学卒業と同時に連合キリスト教伝道団に加入、1912年に中国安微省の合肥に派遣された。そして1919年に南京の金陵女子大学の教師となる。


中国では1924年から28年にかけて、国民党と共産党が合作して、中国の統一と在華外国権益の回収、不平等条約の撤廃を叫んで国民革命が展開された。当時中国を支配していた北洋軍閥を撃破して、中国の統一をめざした国民革命軍が広東を出発して北上、1927年3月24日に南京に進撃した。このとき、革命側の軍隊と民衆が、外国権益の回収と外国人排斥を叫んで、日米英などの領事館を襲撃し、外国人の住宅、学校なども破壊、放火する暴動事件が発生した。
これに対して長江に停泊していた英米の砲艦が城内に向かって威嚇射撃をおこない、、中国側にも多くの被害を与えた。いわゆる南京事件である。


彼女の日記(1937年8月12日から1940年4月14日まで)のなかの1937年12月1日から1938年3月31日まで(いわゆる南京大虐殺事件の期間に相当)の翻訳がこの本に収録されている。


彼女が直接に見聞した日本軍の虐殺行為に対して無力を感じ、のちに米へ帰国してから精神を患い、1941年5月14日にガス自殺で永眠した。
 2012/01/07 (土) もう週末か


昨夕に藤田ホテルで「連合福井新春旗開き」が行われた。



山岸会長挨拶のあと、四人の民主党国会議員の挨拶についでの若山社民党県連代表の挨拶にはしっかりと脱原発に向けての言い回しがあった。



明けて今朝の新聞の大見出し記事は「原発 40年で廃炉」。
母方のルーツが嶺南・敦賀の僕は心が少し和らだ。これがザル法にならないことを祈るばかりだ。

 2012/01/06 (金) 一昨日と昨日



一昨日の晩は7人が私の事務所に集まった。新年会なので、ビール・焼酎・どぶろくETCをチャンポンで飲んでE気持ちになってしまった。


その翌日つまり昨日は早朝に問屋団地のユニオンプラザへ。連合福井の山岸新会長への年始挨拶だ。帰途、感じのいいセーターを購入。


午後は金津中学校へ。通訳者二名聾唖者二名担当教師三名で手話講習についての打ち合わせ。打ち合わせは5時過ぎに終了し、僕はその足でJR芦原温泉駅から福井行普通に飛び乗った。


福井駅で僕を待っていてくださったのは、蓮如記念館の稲田さん。




何年ぶりかで、高級赤白ワインを楽しんだ。


 2012/01/04 (水) 昨日の続き


五木寛之著・「百寺巡礼」に入っている「吉崎御坊(蓮如がつくりだした幻の宗教都市)」を読んでいたら、吉崎の郷土史家・朝倉喜祐氏の名前が出てきた。
故朝倉喜祐氏は、僕が金津町町会議員に立候補した年(10数年前)にあるひとから紹介していただいた方で、例年多数が参加して行われる吉崎ウオーク(金津小グラウンド→吉崎御山)に於いて、最終地の御山でマイクを持って吉崎あれこれをしゃべっていたひと。ついでに、日中戦争当時同じ連隊だった芦田伸介との友情関係もしゃべっていた。


活字になった本のなかに知り合いのひとの名前を発見するのはなかなか楽しいものだ。本の書き手のそのひとを見る目と、自分がそのひとを見る目との間にある落差を確認することが即ち「人は人 俺は俺」を確認することであって、なかなか楽しいものだ。


さて
吉崎といえば、鹿島の森だ。
昨日、僕は久しぶりにこの森を訪れた。ブナ・ツバキ・スダジイなどが鬱蒼と茂るこの森は昼間も暗く、まさに聖域を感じさせる。
しかし
地係りが加賀市なので、文句を言う筋合いではないが、かって海面に浮かび上がっていた木道も途中で朽ちて通行不能となっており、森の山頂にあった忠魂碑も倒壊している。
自然の樹々が朽ちるのはまさに自然の摂理なのだから、あるがままでいいと思うが、人間の手になるもの・木道や忠魂碑などは人間の手で維持管理に努めることを怠ってはならないと思う。


そうすればちょっとしたデートスポットだ。手をつないだ若い(年寄りでもいいが)男女の後姿と鬱蒼とした森のコラボは素敵です。


 2012/01/03 (火) 北潟湖


昨日の午前中、僕は北潟湖のほとりにひとり佇んでいた。
風は冷たく波は荒い。広い湖面には子鴨が一羽漂っているだけだ。小魚を求めて時折水中にもぐっている。
遠くシベリア大陸から日本へ渡ってきたのだろう。いつの間にか親鴨と離れ離れになってしまったのだろう。「ネバーギブアップ、つらくとも生きていけよ、子鴨くん。これから先の人生(というか鳥生)に幸あれ」と僕は祈った。


祈りながら僕は10年ほど前にシベリア大陸から我が家へホームステイにやってきたウラジオストック在住のロシア人少女三人を思い出した。
抜けるような白い肌とほっそりした体つきの彼女たちも、今は30歳前後になっているはずだ。
ロシア人はじゃがいもを主食としているので、現在はぶくぶくおばさんになっているのだろうが、「ネバーギブアップ、動くのがつらくても頑張って生きていけよ」とついでに祈った。


10機の風力発電が湖面の向こう側にその威容を現している。低周波などの懸念があることはあるが、原発の非人道性と比べりゃ、エコの観点から、未来を託すに値いするものなのだろう。
閑話休題
昨日読んだ五木寛之著「百寺巡礼」に、小浜市の明通寺が入っている。僕は二度行ったし、一回は住職・中島哲演師から直接お話を伺った。師は昔から「若狭に原発をつくるな」の講演をやり続けているひとだ。
それはともかく
五木によれば、明通寺は日本最初の征夷大将軍・坂上田村麻呂が大同元(806)年に建立したものとのこと。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐に精を出し、ついに降伏させ蝦夷の首長であるアテルイを捕らえた。しかし彼は朝廷にアテルイの助命を嘆願したが聞き入れられず、アテルイは死罪となってしまった。
坂上田村麻呂はアテルイ以下蝦夷のひとたちを殺戮したことに対する贖罪として彼等の霊魂を鎮めるために明通寺をつくったのだ。


「それをするくらいなら蝦夷征伐などしなきゃよかったのに、征夷大将軍などにならなきゃよかったのに」と僕は素朴に思うのだが、侵略主義はつい数十年前まで国益として許されていたのである。


もともと原日本人であった蝦夷や熊襲が天孫降臨(渡来だろう)の大和朝廷にとってのまつろわぬ種族として戦争をしかけられ過酷を強いられていくのである。
げに歴史とは地上に累々たる屍を積み上げることではなかったか。


 2012/01/02 (月) 松のうち


昨日はDVDで「バルトの楽園」を観た。


第一次世界大戦中の板東俘虜収容所が舞台。収容所所長・松江に松平健が扮している。この収容所の俘虜と地域住民との交流についてはうっすらと聞いていただけ。この映画で詳細を知ったのだが、独人捕虜みんなでベートーベン・「第九」を演奏するラストシーンが印象的だった。


閑話休題
平成9年のきょう、ナホトカ号が三国沖に漂着。その頃の僕は、崎地区の住宅工事現場へ建築設計監理の立場で日参していたのだが、海岸付近は重油の匂いが激しかった。
沖合いに胴体が分断されたナホトカ号が半分沈んでいる座礁姿を見た時、「うーん、ジョーズみたいやなあ」と僕は思った。


後日、あの頃は親しかったOさんと一緒に海岸掃除ボランテイアへでかけた。シャベル道具一式を借り受け、軽トラで浜地海岸へ。


砂地をちょっと掘ると、黒いコールタールがピンポン玉のようなかたまりとなって出てくる。掘れども掘れども尽きないのだ。
掘るのに飽きて、横で掘っているひとに「君はどこから来たの?」と東京弁で聞いたら、「福岡からです」という答えが返ってきた。


女性が近くにいると一言言葉を交わさずにはいられないというこの癖は平成24年度も続いていきそうだ。


2012/01/01 (日) 謹賀新年


謹賀新年



本日の午前7時過ぎ。富津の丘から初日の出を待ったけれども、空が曇っていて残念。
でもいい景色だった。