2012年08月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日

 
2 2012/08/10 (金) 郷土史二題

「竹田新道碑」 (発信者 某氏)


本村の人ではないが、郷土の交通上、深い関係があり、多大の恩恵を受けている先覚者渡辺茂十郎氏の事蹟について述べよう。
本村の南端、東山区から川上橋へ出る三叉路に渡辺茂十郎氏の碑が建っているが、これには血のにじむような新道開発の物語が秘められている。
もと、山竹田への通路は長畝村の豊原峠を超えなければならなかったので、丸岡町からの日用品購入はもとより、竹田産の木材、薪炭の類に至るまですべて人の肩や背によって運ばれ実に困難を極めたものである。
一方、竹田川の渓流に沿うて川上区からの小路はあったけれども、これ又断崖に臨む険路で荊棘道を塞ぎ、又場所によっては右に左に川を渡ったもので、今もなお「一の瀬」「ニの瀬」「三の瀬」などと往時を偲ばせる地名も残っているほどで到底車馬の通ずる所ではなかったのである。山竹田村の渡辺茂十郎氏は夙に之を漑き、何とかしてこの険路を拓いて村人の労苦を救い広く世人の利便を図りたいものと種々思いをめぐらしていたが、決然立って街道開発の事業を起し遂にその目的を達したのである。
今から五十七年前明治三十年村内の有志と謀り寝食を忘れて県当局の了解を得て工費三千五百円で翌三十一年工事に着手した。そして一切の責任を負い、川上区の佐々源三郎方に止宿して工事を督励した。然し工事は予想以上の困難を極め、人夫の雇傭も思うにまかせず、其の上工事費は遂に予算額の二倍にも及んだ。然し氏は之に屈することなく、祖先伝来の私財を投じて之にあて、同三十五年、五カ年の歳月を要して遂に工事を竣え、新道の開通を見るに至った。之が今の竹田新道である。
これによって平坦地との交通も甚だ便利になり、日に車馬数十輌往来するようになり、竹田村の産業は頓に活気を呈し、文化の移入も容易になった。その後更に改修が加えられて道巾も広くなり、一昨年からは丸岡町からバスも運行するようになり、往時の仙境山竹田へも座りながらにして往復できるようになった。又県境大内峠を越えて山中温泉へのハイキングコースとして近年県内外へも広く紹介されて行楽客で賑わい、往年の未開拓村竹田は一躍して文化村として目ざましい発展を遂げるに至った。共に山村として隣接して密接な関係にある本村民の受けている恩恵も多大なものがある。これ実に渡辺氏の多年辛苦の賜と謂わなければならない。
竣工の年十月、同村の有志等相謀って氏の功績を永遠に伝えんがために新道の入口に当たる川上区の三叉路傍に氏の功労碑を建ててその労に報いた。碑陰には元丸岡藩医合屋史仲氏の句で「竹田新道の開けしを祝して」と題して
「いとやすく あゆみのぼるや 川ざとへ」と刻まれている。
かくて氏は五年後の明治四十年九月、四十七歳の壮齢を以て没したが、村民からいたく惜しまれ、大正八年にはその十三回忌に当たり有志等相寄り碑前にて懇ろな法要を営み氏の余沢を讃えたということである。

「畑時能と応蓮寺」


畑時能は、勝山・伊冶地の鷲ヶ岳で戦死(興国二年・一三四一年)。
時能の子惟能は勤皇の志深く藤原藤房に随行して大義名分を唱えた。父の菩提を弔うため豊原華蔵寺に入って僧となり玉泉坊道教と号した。その後、平泉寺に行き父の遺形である守本尊と楠木正成から新田義貞、脇谷儀助を経て伝えられた鉄笛を受け取った。戦乱が収まった後、高須城址に赴き、一小庵を建て応蓮庵道教と称え、父時能及び藤原藤房公の菩提を弔っていた。
康永三年(一三四四年)伊井村の神明神社の別当職に選ばれ、高須の応蓮庵を閉じ、父の遺形を持って伊井村に移住した。
分和四年(一三五五年)伊井村字堂の森という所に一閣を建立し、高須山応蓮寺と号し、同時に畑家の墳墓とした。
その後、時が経って慶長元年(一五九六年)字堂の森より現在の字中舎に移り、寛文ニ年(一六六ニ年)東本願寺の末寺に加わり高須山応蓮寺と申請し認可を得ると共に玉泉坊道教の開基、高須山応蓮寺は、畑時能の菩提寺として今日にいたっている。


二年前の夏、応蓮寺に出向き、楠木正成ゆかりの鉄笛を見せてもらった。700年余の時を経て、楠木正成と対座している気分になった。歴史ロマンである。


2 2012/08/09 (木) 無題


今朝の総務文教委員会の傍聴を終えて帰宅すると、オープンカフェのハイビスカスが花開いている。



40年程前、ぼくは沖永良部島で二ヶ月間を暮らしたことがあるが、島にはハイビスカスが咲き乱れていた。


2 2012/08/08 (水) 昨日の一日


昨日の午後は、文化会館において「あわら市戦没者追悼式」並びに「戦没者追弔法要」がいとなまれた。


荘厳な雰囲気のなかで、遺族会会長が「遺族も高齢化しあるいは死亡して、我々遺族が戦後に味わった苦難を、伝える人も少なくなってきている。それでも戦争の悲惨を伝え続けていかなければならない」と言っていた。



式は年一回のセレモニーであり、普段の生活の中でそのことを意識し、聞き続けることが大事なのだと思う。


あわら市の牛山地区に、太平洋戦争で亡くなった人たちの共同墓地がある。二ヶ月程前、ある人に連れられて訪れた場所だが墓に刻まれた死亡年をみると殆どが20歳前後である。



夜の事務所には7人が集まり、「原発を考えるあわら市民の会」世話人会が開かれた。前回は「チェルノブイリハート」上映会を行なったが、今回は福島原発事故で「帰宅困難区域」から福井に引っ越して来た人の生の声を聞く予定。


みんなが帰ったあと、オープンカフェに出て夜空の星を眺めた。
夜空の星は何百億年か前にできたもだ。それ故、永遠とか一瞬とか非現実的な言葉が頭の中を駆け巡る。
「薩摩芋焼酎」が美味しかったので、一層幻想的な気分になった。


22012/08/06 (月) 昨日の昼下がり

昨日午後の中央公民館大ホール。



憂瞳・M氏の簡単な挨拶が終わったあと


記念講演に移った。
講師は福井家庭教育研究所の高原まゆみ氏。
演題は「家族の絆、地域の絆」




実体験をベースにした話には説得力がある。講師は講演の後半のところで涙ぐんでいた。
講演が終わったあとの立ち話で、ぼくは(女性講師なので失礼な質問だとは思ったが敢えて)「歳はおいくつですか?」と聞いた。
「昭和22年生まれです」という答えが返ってきた。
ぼくよりひとつ上・・・典型的な団塊の世代だ。


年を重ねても、みんな頑張っている。
「俺もうだうだ下を向いてたらあかんなあ。明日を信じて頑張って生きていこう」と思った。


夜になり、オープンカフェで白ワインを飲み終えた頃、S氏が来訪。
「テレビをつけてもオリンピック関係ばっかり。このところの日本、それどころではないはずやのに。そう思いませんか?」と問われ、「確かに」とぼくはうなずいた。
うなずきはしたものの、ついついオリンピックをぼくは見てしまう。
 

22012/08/05 (日) オープンカフェで考えごと


今朝は6時から、嶺北消防署の総合訓練が、ハートピア春江で行われた。



消防団長が、昔、工場を設計した時のクライアントであるのには驚いた。



それはともかく
日本は昭和20年8月10日に「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終結した。ぼくが産まれる四年前のことだ。
毎年、この季節には、この詩がぼくの頭の中をかけめぐる。


骨のうたう(1942年) 武内浩三


戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
遠い他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や


白い箱にて 故国をながめる
音もなく なんにもなく
帰ってはきましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や女のみだしなみが大切で
骨は骨 骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨はききたかった
絶大な愛情のひびきをききたかった
がらがらどんどんと事務と常識が流れ
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった


ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
こらえきれないさびしさや
国のため
大君のため
死んでしまう
その心や
22012/08/04 (土) 昨日の一日


昨日の午後は、福井県教職員組合の政策懇談会に出た。
福井県下それぞれの支部代表と議員との間での懇談だが、印象に残ったことのひとつは、中学校統合案の浮上している自治体があるということで、当然のことながら、僕は、5年前のあわら市でこの問題に関わった議員として、沢山の意見を求められそして答えた。意見を交換するなかで、5年前が走馬灯のようによみがえってきた。


夜は潮騒の聞こえる海鮮料理店で食事。
窓外に目をやると、えち鉄「みくにみなと駅」が間近に見える。駅周辺の闇のなかでのライトアップがとても幻想的だった。





食事も美味しくビールも美味しく話題も楽しく、なんというか、特別の夜となった。


2012/08/03 (金) 蛇塚

  朝倉喜祐著「金津町の歴史の道」
・蛇塚
蛇塚は金津高校校舎裏の農道に向かって建っている。今でこそ商店家屋が立ち並んでいるが、北金津宿内に入る道の左側一帯は田畑で、蛇が多く生息していたという。

寛永六年〔1853〕大旱魃があり、農民は福井藩に嘆願し水を引いた。

その工事中、不思議にも白い蛇が多く表れたので蛇塚と社を建立した。神社には、雲や雨を支配するという龍をまつり、さらに、琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請して、蛇塚神社金龍大権現と称した。明治初年、蛇塚神社は、金津町六日の一姫神社に合祀されて蛇塚のみが現在地に残った。

蛇塚は、笏谷石造り、台座20cm、塚丈130cm、正面に「南」「世々かけて、八束たりほの豊年を まもらせたまへ龍の大神」、右側は「東」左側は「北」、裏面に「地」と刻石されている。蛇をまつり豊年を祈った農民の心情が伝わってくる。


蛇塚の左に笏谷石造りの影向堂がある。石扉の右が左が三日月で、のぞいてみたが石仏が安置されていない。伝えによると、手を合わせ拝んでいると、神仏があらわれ加護してくださるとのことです。


朝倉先生は、先年、亡くなられてしまったけれど、毎年の金津小―吉崎御山ウオークでは、御山でマイクを持ってしゃべっていなさった。

ということはともかく
昨晩の事務所が手話サークルの会員でいっぱいになった為、ぼくは外のオープンカフェに出て、白ワイン片手に夜空の星々を眺めていた。その時、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」が頭の中をよこぎった。


 2012/08/02 (木) 暑中お見舞い申し上げます


オープンカフェのカンナが花開いた。極彩色なので、ぼくはこのカンナを「アンナ・カレニーナ」と名付けた。
アンナは自然の法則に従って花咲いているだけの話なのだが、花弁のねじれや独特の極彩色を見ていると姿に自由意思があるように見える。つまり芸術のように思えてくる。





昨日のオープンカフェへの来訪客は3人。暑くて汗ばんでも、戸外で季節感を味わいながら話をするのは魅力です。


最初の来訪客とは、吉崎の話になった。
「あわら市を蓮如で盛り上げるにしても、JR芦原温泉駅から吉崎への交通アクセスがないのでは駄目じゃないか」ということ。


二番目の来訪客との話のテーマは、「新幹線について及び介護保険制度についての疑問」。
新幹線について、来訪客は「JRを利用するあわら市民にとってプラスよりもマイナスが多いのではないか」と言う。
確かに三セクの問題も含めて、6月の北陸新幹線金沢―敦賀間延伸認可決定を素直に喜べない部分はある。
だけど決定になった以上は、利用のしやすさを追い求めていくことは不可欠だろう。


 2012/08/01 (水) 広域連合議会 


昨日は坂井地区広域連合議会最終日。午後1時半から全員協議会。3時から本会議。


以下の提出議案は
 第15号  平成23年度坂井地区環境衛生組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第16号  平成23年度三国あわら斎苑組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第17号  平成23年度三国あわら斎苑組合代官山墓地特別会計歳入歳出決算認定について
 第18号  平成23年度坂井地区水道用水事務組合一般会計歳入歳出決算認定について
 第19号  平成24年度坂井地区広域連合一般会計補正予算(第2号)
 第21号  平成24年度坂井地区広域連合代官山墓地特別会計補正予算(第1号)
 第22号  坂井地区広域連合広域計画の変更について

全て承認された。


今回が坂井地区広域連合第一回目の議会ということで、夜は丸岡町で親睦会が開かれた。ぼくは宴席でしゃべるのが不得手でコンパニオンガ―ルズが寄ってくるのを極端に嫌う。
ひたすら珍しい名前の麦焼酎を寡黙に飲み続けていた。
ということはともかく、昨日は図書館でホーキング著「ホーキング宇宙と人間を語る」を借りてきた。
最近は、内向性気質が進行して、興味の対象が人間世界よりも大宇宙のほうに移ってきている。


ということでこの本を読み終えた。

一昨日に博覧強記の「とんば」さんの家へ行った時、「宇宙は無限空間のなかに存在する一個の生命体である。生命体である限り、何百億年かあとに必ず死滅する。その時、宇宙が持っていた固有の空間軸・時間軸も又消滅する。」と言われ、「???」のぼくにできることはとにかく宇宙関係の本を読むことだった。
この本には、例えば進化論のことが、こう書かれている。
「神が人間(アダムとイブだろう)を創り給うたとして、アダムはその時ゼロ歳児つまり赤ちゃんだったはずだ。赤ちゃんは両親の庇護の下でしか生長できない。とするならばアダムは猿かなにか生まれ落ちてすぐに自力で生きていくことのできる哺乳類の動物であったはずだ。つまりアダムは最初から人間ではなくて、子孫が人間になっていった」との説明。

うーん、宇宙論は郷土史とともに面白いと思った。