2012年09月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日

 
2012/09/10 (月) 新しい週の始まり

昨日の午後、原発問題を考える会で講演する川崎葉子さん。



帰りによった「とんぼ」さん宅で、見事に育ったサギソウを見る。



2012/09/09 (日) 本日は講演会


図書館で借りてきた「細呂木村誌」に「開田橋」のことが書いてあった。


明治維新で関所も宿場も廃止になった上に、昔の北陸街道も熊坂新道に変更になって、細呂木集落はさびれるばかり、その生業を農業主体に切りかえなければならなくなった。けれども一戸当たり五反分の田では糊口を凌ぐことすら容易でない。そこで集落民の間には松平春嶽公ののこした開田事業をつづけたらという考えが起こった。北潟湖は300町歩の干拓可能の水面があったので、明治31年(1898)飯塚五作は森藤右エ門 や蓮ケ浦の杉田重吉にはかって埋め立て開田を申請することとなった。しかし当時集落民は渡船営業の方に熱心で、開田に賛成する者が少なかったので中止した。その後東宮殿下(大正天皇)の北陸行啓のあるのを好機として明治41年12月に、細呂木・蓮ケ浦両区の共同で水田15町1反5畝の埋立開田を県知事に出願した。これについて北潟漁業組合の反対もあったが、坂井郡長並木立弥等の調停で解決し、同45年1月15日付で許可になった。
埋め立て事業の組合員は、両部落のほとんど全員で、毎年農閑期を利用して工事をすすめることとした。しかし工事は遅々として進まず、十ヵ年の期限も残り少ないなったのに、田はわずか2町7反しかできなかった。そこで県の指導によって、耕地組合を組織し、飯塚五右エ門(五作改め)を組合長として埋立期間を六ヵ年延してもらって、工事を再開した。資金の調達には最も苦心した。総工費7万2千600円の中、農林省助成金2万1千300余円、低利借入金3万2千円の見通しがついて、担当の近藤技師(元県技師)の献身的な努力もあって、昭和7年8月遂にこの両集落の共同事業は完成した。先覚の青年飯塚・森・杉田等の夢は30余年の辛酸を経てようやく実現し、黒髪が霜と変わる齡になって、かっての北潟湖に稲穂の金波が立つようになった。役員は3人の他に細呂木の上坂伊右エ門、久田浅郎、坂本伊右エ門と蓮ケ浦の坂野弥之助、久保田太三郎、森常吉があった。
総面積15町4反7畝(内耕地は13町1反8畝余、道路敷6反3畝余、溝梁敷7反4畝、観音川および運河敷9反余)特典としては、開田全域にわたり、六十ヵ年免租となった。今細呂木区の入口に開田を見下ろして立派な埋立記念碑が立っている。



この開田は集落の生業を大きく支えていたが、昭和23年の福井地震で沈下し、被害を受けたので、昭和33年3月、北潟湖辺土地改良区、地盤変動対策事業を起し、運河を廃し、道路を広げるなど、22町8反(細呂木・蓮ケ浦区15町8反、北潟区7町)の改良工事を実施して、翌34年10月に竣工した。工事費は1299万円(細呂木・蓮ケ浦1081万円、北潟218万円)、請負人は奥建設株式会社であった(委員長飯塚五右エ門、副委員長杉田)


昨晩、友人のTくんが来訪。県から認可の降りたA型事業所のことで、ぼくの妻との打ち合わせに来たのだが、ぼくも一緒にいろいろを聞いた。
聞いていて思ったことは、しゃばの価値観はどんどん変わりつつある、事業主も旧態依然では駄目だということだ。勝海舟が「氷川清話」のなかで言っているように、「世間は生きている 理屈は死んでいる」のである。


三人打ち合わせが済んでから、二人でオープンカフェに出た。
「世間虚仮。白ワインを口に含みつつ、ひとり夜空の星を眺める。これにまさるシアワセがあるだろうか」というぼくの思いに彼も賛同し、「人間は自然の一部やねえ」と言ってくれた。
2012/09/08 (土) もう週末か

平成24年度9月議会定例会が始まった。
任期中の定例会はこの9月議会、12月議会、来年3月議会、6月議会の計4回だ。勿論その間に決算審査特別委員会があったり坂井地区広域連合議会や議会報告会や視察研修があったりで予定だらけだが、議員にとって必要なことは、これらへの出席(当然の義務)ではなくて、出席に向かっての予習勉強だろう。


そういえば来年はあわら市議選の年だ。議会報告会でも少しアラワになってきたと思うが、議会がこれから必要とする議員の資質はドブイタ的なひとではなくて地区推薦を土台とするひとではなくて、ごく普通の常識人であることだと思う。個人的に僕が思うのは、郷土に愛着を持ったひとで、ということは郷土の歴史に造詣のあるひとが立候補してほしい。それから女性がもっと立候補してほしい。
条例化することは不可能かもしれないが、世代別性別定数を設けたほうが面白いのではないか。

というようなことを秋模様の空を眺めながらオープンカフェで考えていた時、続け様に二人の来訪客あり。
最近の来訪客への応対場所は、応接室半分、オープンカフェ半分の割合になってきた。時折はアルコール持参の来訪客もいて、ぼくにはこれが嬉しい。

午後、福井市から旧知の夫婦がやってきた。「きょうされんinふくい」の案内ビラを持ってやってきた。
話題がとんで、共通の知人の話になった時、Kさんが若くして亡くなったことを聞いてぼくはびっくりした。手話サークルに来ていたこともあるし、他人のことを人一倍思いやる女性だった。善人が早く亡くなるのはこの世の常だと思う。


2012/09/07 (金) ファン・ゴッホ

小林秀雄著「ゴッホの手紙」より。
ドレンテでのゴッホ。
「この田舎を、何時間も何時間も歩き廻った者は、ここには果てしない土地、麦かヒイスの生えた土地と果てしない空の他には、実際、何もないのだという感じを抱く。馬も人間も蚤のように小さい。人間は何も知らされていない、土地と空とがあるのを知っているだけだ。それはあるが儘の姿で、いつまでも、途方もなく大きい儘でよい。併し、人間の性質といふ小さな一粒が他の一粒に気付く―無限ということは、まあそっとして置かう―この人間という一粒のなかで、人は一個のミレーになるあらゆる粒粒を見付けるのだ。僕は、ルユクサンブールにある≪グレベルの教会≫といふ小さなミレーの繪そっくりの、ほんとにそっくりの小さな教会堂の前を通ったよ。あの繪には、鋤を持った小さな百姓がいたが、ここでは、羊の群れと一緒に、生垣に添って歩いていく牧人がいた。背景には、海は覗いていないが、芽生えた麦畠の海があった。波の海の代わりに畝の海だ。さういうものの作り出す効果は同じだった。百姓達は野良仕事に忙しい、―砂運びの車、羊飼い、道を直す人夫達、肥料車。街道筋の小さな宿屋で、紡車を前にした婆さんを写生した。お伽話から出て来た様な、小さな黒い輪郭―明るい窓に向かった小さな黒い輪郭、その窓からは、晴れた空、繊細な緑の野を横切る小路、草をつつく鶯鳥の群れが見えた。やがて薄暗くなる。静寂と平和が、かういうもののすべてを包む様を想像してほしい。秋の葉をつけた背の高いポプラの並木道。右も左も、見渡す限りのヒイスの原、その中を貫く真っ黒な泥濘の大通り、あちらこちらに泥炭小屋の黒い三角の半影、その小さな窓から、貧しい焚火の赤い灯がチラチラする。周りには、空を写した汚い黄色な水溜り、その中では樹の幹が腐っている。白っぽい空の下で、夕方の薄明のなかにある、かういう何や彼やごたごたしたものを想像してほしい、何處も彼處も、黒と白との対照だ。さういふ中に、羊の群れを連れた羊飼いの荒々しい姿が現れる。半分は泥、半分は毛の楕円形の塊が、押し合いへし合いしながらやって来る。囲まれる。ぐるりと廻って、ついて行く。羊どもは、泥濘の道を、さも嫌さうに、のろのろと歩いて行く。遠くの方には、百姓家がぼんやりと見える。苔の生えた屋根や、藁や泥炭の堆積が、ポプラの間にちらほらする。羊の小舎も亦三角形の半影になる―夜が来る。戸は暗い洞窟の入口の様に開け放たれる。後の板張りの裂け目から、空の光が僅かにさす。泥と毛の塊りの旅隊は洞窟の中に消える。羊飼ひとランプを持った女が戸を閉める。これが、僕が昨日聞いたシンフォニーの終曲だ。一日は夢の様に過ぎた。僕はこの悲しい音楽にすっかり気を奪われ、文字通り飲み食ひさへ忘れていた。宿屋に行って、珈琲を一杯、黒パンを一と切れ、それから紡車を写生した。一日は終った。明方から夕方まで、と言ふより寧ろ或る夜から次の夜まで、僕はシンフォニーの中で我を忘れた。家に還って、爐の前に座る。腹が減っているのに気が付く、滅茶滅茶に減っているのに気が付く。しかし、もう様子はわかったらう。例へば、傑作百點の展覧会から還って来た様な感じだよ。こんな一日から、何を持って還るか。ただ幾枚かのスケッチだ。併し、もう一つある。働かうといふ静かな熱だ」(No340)


馬鈴薯を食べる人たち



2012/09/06 (木) 本日は坂井地区広域連合議会全員協議会

昨日の午後に、無花果を持った友がオープンカフェに現れた。友は同い年のいわゆる団塊の世代だ。私は無花果のお返しにアイスコーヒーを出した。
国保も介護保険も我々団塊の世代が高齢者の仲間入りをする頃に危機を迎えるだろうという既に挨拶言葉と化したテーマから話が始まり四方山話は大きく拡がっていったが、会議などと違って二人あるいは三人だけでの会話は話がおもわぬ方向に拡がるから面白いというか面白くないというか、とにかく複雑多岐になる。


友が帰ってから夕食をすませベッドに潜り込んだのだが、何故か眠られない。「眠られない時には無理して眠ろうとしないことだ」と、自分に言い聞かせ読書などするうちに夜が明けてしまった。


2012/09/05 (水) 「鮫」 


「見玉は蓮如の二女で、蓮如吉崎に来ると蓮如の長男順如の配慮で吉崎に来て、妻を亡くしていた父蓮如の身の回りの世話をしていた。美人で人付き合いがよく参詣人から、寺内の使用人からも慕われていた。ただ身体が丈夫でなく病にかかり26才で吉崎の地で亡くなった。
蓮如は見玉の死について文を書き残している。その文に、見玉とは玉を見ると読むなり。いかなる玉ぞといえば真如法性の妙理如意宝珠を見るといえる意なりと。また夢にいわく、白骨の中より三本の青蓮華が出生し、その花の中より一寸ばかりの金仏光をはなちいで、蝶となりてうせにけり。即ち極楽世界へ飛んでいったと書かれている。明治初年山上が東西本願寺へ戻った時、この文に基づいて、玉墓が信徒の手によって建てられた。真継伸彦の小説「鮫」に 見玉尼が出てくる。」



ということで真継伸彦著:「鮫」を図書館から借りてきた。
三国の安島で賤民の子として生まれた主人公は、雄島周辺で兄と二人で鮫獲りを生計の糧として育ってきたので、周囲からは「鮫」と呼ばれた。海の荒れた日に鮫獲りに出た二人だが、船に襲いかかった大鮫に片手をくわえられた兄は海の藻屑となってしまい天涯孤独の身となる。


食い詰めた「鮫」は餓死の恐怖と戦いながら、京の都を目指す。時は応仁の乱のさなか。戦乱で身寄りのなくなった「鮫」のような乞食たちに六角堂で粥を施していた僧侶・願阿弥(時宗系だと思う)と言葉を交わしたのが、京におけるというか地獄絵図のなかで青年となった「鮫」の後半生の出発点だったろう。


・・・
願阿弥様は、おれの両肩に置いた手に力をこめた。おれから離れると、あたりの流民につぎつぎに、おなじ説法を垂れてまわっておられる様子であった。聞いている流民はすべて、無表情に口をあけていた。
しかし願阿弥様のお説法は、皆の心に侵みとおっていた。筵を敷きつめた板小屋の中で、何十日かであたたかく皆といっしょに雑魚寝した翌朝、多勢の流民が筵を背負うて動きはじめた。どこへ行くのかと、おれはついて歩いた。せまい両側の家なみの、あちこちの戸口からのぞく蒼ざめた町衆の顔に見送られながら、流民の行列は小路を東へ真直ぐ歩いていった。やがて突きあたった土手にのぼると、寒風の吹きすさぶ川原へ降りて散らばった。おびただしい屍の横たわる河原のすきまに筵を敷きのべて、その上に横たわると、もう動こうともせぬ。
おれは逃げた。せっかく京までたどりついたのに、すぐに死ぬるのはいやじゃと自分に言い聞かせた。願阿弥様が教えてくれたように乞食してあるこうと、その日一日、町なかをほっつき歩いた。夕方には流民の数のめっきりへった六角小路の難民小屋へ、悄然ともどってきた。おれに食物をくれる者はなかった。路上で数度みかけた町衆は、おれが田舎言葉で物乞いするまでもなく、拳をふりあげておどした。大きな屋敷に近づけばかならず犬が吠え、一度は土塀の背後にかまえた矢櫓の上から、おれをめがけて矢が飛んできた。
死人の肉を喰ろうてまで生きのびようという気は、もうなかった。あれは、京へさえたどりつけば助かるという望みがあればこそだ。その京の都で、人は死んでゆくばかりである。板小屋の前の薄い陽だまりのなかにへたりこみ、今にも割れそうな頭であてのない行末を思うていると、いつか夕暮れであった。夕映えが、眼の前の小路や背後にならぶ板小屋を赤々と染めだしていた。
ふと見た西空に、陽は実際には見えなかった。しかし一瞬、おれは満面に血をしたたらせて落ちてゆく、大きな入陽を見た。一年前の春、それは神様の島(注;雄島のこと)の草の茂みのなかで見た、兄者を呑んだ海に沈む入陽であった。あのときの恐怖が、ふいにおれをつかみとった。唇はわなわなとふるえだし、どうにもおさまらぬ。眼には赤い光がみなぎり、光りのなかに、わずかに小路と土塀の輪郭だけがみえた。・・・おれは今、どこにいるのであろう?一年前とおなじ禁忌の、神様の島に今もいる。しかしあのときには、逃げて、逃げて、逃げつづけて、たどりついた所はおなじおそろしい入陽のそばではないか。兄も母も鋳物師も、もうどこにもおらぬ。逃げ場がないままに、おなじ死の恐怖にまた耐えつづけなければならぬのはおそろしい。眼前に死をみつめ、そして何ごともなく、ついに何もなくなるという恐怖に、もう耐えられぬ。今にも錯乱しそうな頭をかかえて身動きもできず、おれは徐々に高まってくりかえし押し寄せる恐怖の波を浴びて五体をふるわせながら、はよう楽になりたいと希いつづけていた。


・・・見玉尼様、それは寛正の第二の年の春のことであった。貴女様はあの春を、どのように過ごされたのであろう?おれはすでに孤児であったが、おれより二つ三つ年上の貴女様にも実の母上様はすでに亡く、しかも父上の蓮如上人様のおそばをはなれて、当時は神楽岡の麓近く、摂受庵という所で御妹の寿尊尼様とごいっしょに、御幼少の身を比丘尼の道に捧げて修行を積んでおられたとうけたまわった。尼寺の奥深くにこもり、み仏様の前に小さな手をあわせて、ひたすら浄土のみ教えを学んでおられた貴女様は、近くをながれる加茂の河原の惨状も、きっと眼にされたことはあるまい。父上様のおそばをはなれられたとはいえ、摂受庵の御住職には大叔母の見秀尼様もおられたという。とぼしい食事に耐えながらも、肉親のあたたかな庇護のもとにあって、餓死に瀕した思い出は貴女様にはなかったであろう・・・


見玉尼と鮫は後年、吉崎の地であいまみえる。
というふうにこの単行本をオープンカフェで読みすすめていた夕刻、若く美しい女(ひと)が現われた。歓談が終わり帰ったあとに、それなりにそれなりの女(ひと)が現われ、またも歓談。


晩酌を終えたあと、夜はひとりで空の星を眺め続けた。
鮫は守護大名朝倉敏景の軍勢に足軽として加わる。加茂川の土手につらねた篝火の下で見張りに立った時、周知の下人の顔を見出し、酒を酌み交わす。下人は「現世のためには朝倉敏景殿、後世のためには蓮如上人様、お二方に忠勤をはげんでおる」と、思いを吐露する。


・・・「その蓮如という坊様は、北国のどこへゆくのよ」
下人のなが話が終わったとき、おれが訊ねたのも、気がむいたときにそこへ行けば、もう一度貴女様に会えると思うたゆえであった。

「吉崎じゃ」
「吉崎とはどこじゃ」
「越前の国の北のはずれ、加賀との国境の海辺じゃ。海のすぐきわに、北潟という名のひろい湖がある。湖のほとりに、低い山がある。蓮如上人様はその山の頂上を切りたいらげて、大きな道場をおつくりになる。そこで説法なさるのじゃ。いやらしい土民でも、銭のない貧乏者でも、信心の話を聞きたい者はみんなこい。さように仰せられて、北国に本願寺様の信心をおひろめになるのじゃ。わしらがように何のとりえもない下人土民ばらをば、阿弥陀如来様がおつくりなされた極楽浄土に迎えていただくための、正しい念仏の仕方を説いてくださるのじゃ」
・・・下人の話によれば、東山大谷にあった本願寺が、寛正第六の正月に焼き討ちを喰ろうたあと、蓮如上人様は山門の追求の手をさけて、ながいあいだ近江の各所を転々としておられた。堅田本福寺の法住様や、金森の道西様など、近江の信徒はよく助けた。執拗に御上人様のあとを追う僧兵やその一味と、何度も合戦した。しかし山門との和議はすこし前にようやく成りたち、御上人様はそのころ、琵琶湖の西南岸のあたり、近松という在所に顕証寺という寺をつくってお住まいになっていた。そこで京へもどれる日を待ちのぞんでおられたが、その近江も、昨文明第二の秋に京極持清殿が病死したあと、南近江の西軍、六角高頼殿が反撃に転じて、今日に変わらぬ戦乱の巷となりかわった。布教は思うようにははかどらぬ。蓮如上人様はこれを機に越前に出向いて、北国の門徒の信心を正そうと、固く覚悟なされた。越前の守護職におさまった朝倉敏景殿に庇護をおたのみになるため、今日は朝倉の陣までおでましになったのであった。
下人が仕える和田の一党は、足羽郡和田村の国侍であった。信心はまことにあつく、代々の総領が本覚寺を継ぐしきたりで、当代では蓮光という坊様が一族の首領であった。しかし家を保持するためには、朝倉に忠勤をつくさねばならぬ。忠勤の甲斐あって、今では興福寺大乗院領の荘園、坂井郡河口庄の、細呂宣郷下郷の別当職を恩賞に得ていた。秋には六十町の田からあがる年貢をとりに、和田党は細呂宣まで出向く。蓮如上人様が道場をおひらきになるという吉崎は、この細呂宣郷下郷にあった。和田党が尽力して、御上人様のものとなった。下人はそれゆえに、吉崎の風光をよく知っていた。おなじ越前に生まれたとはいえ、小さいときに在所を出たおれは、自分がそだった安島の在所から、浜づたいに東へ五里ほど行った所にあることさえ知らなかった。・・・



この単行本のごく一部をペーパーからデータに逐一転換していて疲れた時、著者の履歴を調べた。
著者は、高橋和巳・小田実・芝田翔らと共に同人誌「人間として」に拠り、文学・思想活動を展開する、と書いてある。「なるほど、夭折の小説家高橋和巳を思い起こさせる」と、私は思った。


2012/09/04 (火) 無題


カラスのいる麦畑



ファン・ゴッホ最晩年のこの作品が自身の自殺を予感させるものであったのかどうかは絵の門外漢である私には勿論わからないが、麦畑の構図や背景としての空の彩色に人生のままならなさが色濃く出ていることに疑いはない。


ということを、今読み進めている小林秀雄著「ゴッホの手紙」で改めて思った。もともとが教誨師を目指していたゴッホが夢叶わず挫折して、絵描きの世界に転身したあとの天分に加えての膨大な習作で才能は一気に開花したのだけれどもかつがつの生活は自殺するまで続き、つまり生前に売られた絵は殆どないという。美に殉じるということはそういうことなんだろう。
それはともかく、昨日は本会議初日だった。


提出議案は
議案第62号  専決処分の承認を求めることについて
(平成24年度あわら市一般会計補正予算(第3号))
 議案第63号  平成23年度あわら市一般会計歳入歳出決算の認定について
 議案第64号  平成23年度あわら市国民健康保険特別会計歳入歳出決算の認定について
 議案第65号  平成23年度あわら市後期高齢者医療特別会計歳入歳出決算の認定について
 議案第66号  平成23年度あわら市産業団地整備事業特別会計歳入歳出決算の認定について
 議案第67号  平成23年度あわら市農業者労働災害共済特別会計歳入歳出決算の認定について
 議案第68号  平成23年度あわら市モーターボート競争特別会計歳入歳出決算の認定について
 議案第69号  平成23年度あわら市水道事業会計の認定について
 議案第70号  平成23年度あわら市工業用水道事業会計決算の認定について
 議案第71号  平成23年度あわら市公共下水道水道事業会計決算の認定について
 議案第72号  平成23年度あわら市農業集落排水事業会計決算の認定について
 議案第73号  平成23年度芦原温泉上水道財産区水道事業会計決算の認定について
 議案第74号  平成23年度あわら市健全化判断比率及び各公営企業に係る資金不足比率の報告について
 議案第75号  平成23年度芦原温泉上水道財産区水道事業に係る資金不足比率の報告について
 議案第76号  平成24年度あわら市一般会計補正予算(第4号)
 議案第77号  平成24年度あわら市国民健康保険特別会計補正予算(第1号)
 議案第78号  平成24年度芦原温泉上水道財産区水道事業会計補正予算(第1号)
 議案第79号  あわら市防災会議条例及びあわら市災害対策本部条例の一部を改正する条例の一部を改正する条例の制定について
 議案第80号  市道路線の認定について
 請願第3号 学校給食を自校方式で継続することを求める請願 


議会日程は
月日 会議名


議事
9月 3日 本会議

9時30分開会
会期決定 議案上程
提案理由説明
委員会付託 

4日 休会
5日 休会
6日 休会

7日

休会
8日 休会
9日 休会


10日 本会議

9時30分開会
一般質問

広報編集特別委員会 本会議終了後
11日 総務文教常任委員会 9時30分開会
12日 総務文教常任委員会 9時30分開会
13日

厚生経済常任委員会

9時30分開会 
14日

厚生経済常任委員会

9時30分開会
15日 休会
16日 休会
17日

休会

18日 休会
19日 休会
20日 議会運営委員会 9時30分開会
21日 全員協議会 9時30分開会

本会議

13時30分開会
委員長報告
質疑 討論 採決
閉会



2012/09/03 (月)  本日は本会議初日


昨日の午前中は金津トリムパークにおいて、あわら市防災訓練視察。
① 



防災訓練終了後は、あわら市伊井の応蓮寺に出向き、そこで「新田義貞公を顕彰する会」の人たち十数人と合流した。
 
写真②は「新田義貞ゆかりの鉄笛」をじっと見つめる顕彰会のひとたち。


その後、みんなで丸岡町にある長崎称念寺へ車を走らせた。。
  ③ 
   ④

写真③は寺の縁起をしゃべる住職。
称念寺はかの一遍上人で有名な時宗の寺。一遍は、念仏以外何もいらないと、全国を遊行して歩いた。
「出る息いる息をまたざる故に、当体の一念を臨終とさだむるなり。しかれば念々臨終なり、念々往生なり」


写真④は義貞が身につけていた鎧の一部。この寺は新田義貞公墓所として有名だが、境内には松尾芭蕉の句碑もある。


月さびよ 明智が妻の 咄せむ

元禄四年(1689)8月、松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り、明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ句である。


2012/09/02 (日) 昨日の一日 


昨日の午前中は、金津中学校体育祭。
午後は、金竜神社例大祭。
夜は某所で金中同窓会打合せ。


ということで、結構ばたばたした一日となったが、印象に残ったのは男女十数人が出席しての同窓会打合せ。
何年間も同窓会というものに出席したことがないぼくにとって、打ち合わせ会は久々に味わう独特の雰囲気だった。ながねん会ったことがなくても、一度顔を合わせると、瞬時に昔にタイムスリップしてしまう。
日頃の謹厳実直を忘れ多少俗っぽいことを話しても許されるのである。


打ち合わせ会が終わった時、時計の針は11時をさしていた。会場を出て帰宅するやいなやバタンキューだった。


2012/09/01 (土) きょうから9月 


福井新聞の8月31日版16面に「本県高田 2日から登場 トラック4種目で競技」という見出し記事があった。
内容は
「パラリンピック・ロンドン大会の車いす陸上には本県の高田稔浩(46)=福井市役所=がトラック4種目に出場する。2日午前(日本時間同夕)の男子100メートル予選が初のレースとなる。高田は自身の障害クラス、T52で行われるトラック競技全種目の100、200、400、800mに参加。100、200mで入賞、得意とする中距離の400、800mではメダルを狙う。2日の100mを皮切りに、3日に400m、7日に800m、8日に200mに挑む。パラリンピックは自身にとって3大会連続の出場。前回北京大会で400、800mは銀、前々回アテネ大会では金メダルを獲得しており、100、200mは今大会が初参加となる。」


ぼくはこれを読んで、「ああー、あれからもう8年も経ったのか」との感慨にふけった。
金メダルを獲ったあとしばらくして高田さんの講演があり、ぼくは手話通訳者として彼の傍らに立った。傍らで見る高田さんの上半身はたくましく、上腕筋は見事なものだった。


体の機能の一部を損傷した障害者にとって、他の機能をより発達・強化させることが生活充実につながる。


なにもスポーツ選手に限らず一般の人にとってもこれは当然のことで、例えばぼくの場合、寄る年波で視力が低下してきたがその分だけ心眼つまり心の眼が鋭くなってきた。