「見玉は蓮如の二女で、蓮如吉崎に来ると蓮如の長男順如の配慮で吉崎に来て、妻を亡くしていた父蓮如の身の回りの世話をしていた。美人で人付き合いがよく参詣人から、寺内の使用人からも慕われていた。ただ身体が丈夫でなく病にかかり26才で吉崎の地で亡くなった。
蓮如は見玉の死について文を書き残している。その文に、見玉とは玉を見ると読むなり。いかなる玉ぞといえば真如法性の妙理如意宝珠を見るといえる意なりと。また夢にいわく、白骨の中より三本の青蓮華が出生し、その花の中より一寸ばかりの金仏光をはなちいで、蝶となりてうせにけり。即ち極楽世界へ飛んでいったと書かれている。明治初年山上が東西本願寺へ戻った時、この文に基づいて、玉墓が信徒の手によって建てられた。真継伸彦の小説「鮫」に 見玉尼が出てくる。」
ということで
真継伸彦著:「鮫」を図書館から借りてきた。
三国の安島で賤民の子として生まれた主人公は、雄島周辺で兄と二人で鮫獲りを生計の糧として育ってきたので、周囲からは「鮫」と呼ばれた。海の荒れた日に鮫獲りに出た二人だが、船に襲いかかった大鮫に片手をくわえられた兄は海の藻屑となってしまい天涯孤独の身となる。
食い詰めた「鮫」は餓死の恐怖と戦いながら、京の都を目指す。時は応仁の乱のさなか。戦乱で身寄りのなくなった「鮫」のような乞食たちに六角堂で粥を施していた僧侶・願阿弥(時宗系だと思う)と言葉を交わしたのが、京におけるというか地獄絵図のなかで青年となった「鮫」の後半生の出発点だったろう。
・・・
願阿弥様は、おれの両肩に置いた手に力をこめた。おれから離れると、あたりの流民につぎつぎに、おなじ説法を垂れてまわっておられる様子であった。聞いている流民はすべて、無表情に口をあけていた。
しかし願阿弥様のお説法は、皆の心に侵みとおっていた。筵を敷きつめた板小屋の中で、何十日かであたたかく皆といっしょに雑魚寝した翌朝、多勢の流民が筵を背負うて動きはじめた。どこへ行くのかと、おれはついて歩いた。せまい両側の家なみの、あちこちの戸口からのぞく蒼ざめた町衆の顔に見送られながら、流民の行列は小路を東へ真直ぐ歩いていった。やがて突きあたった土手にのぼると、寒風の吹きすさぶ川原へ降りて散らばった。おびただしい屍の横たわる河原のすきまに筵を敷きのべて、その上に横たわると、もう動こうともせぬ。
おれは逃げた。せっかく京までたどりついたのに、すぐに死ぬるのはいやじゃと自分に言い聞かせた。願阿弥様が教えてくれたように乞食してあるこうと、その日一日、町なかをほっつき歩いた。夕方には流民の数のめっきりへった六角小路の難民小屋へ、悄然ともどってきた。おれに食物をくれる者はなかった。路上で数度みかけた町衆は、おれが田舎言葉で物乞いするまでもなく、拳をふりあげておどした。大きな屋敷に近づけばかならず犬が吠え、一度は土塀の背後にかまえた矢櫓の上から、おれをめがけて矢が飛んできた。
死人の肉を喰ろうてまで生きのびようという気は、もうなかった。あれは、京へさえたどりつけば助かるという望みがあればこそだ。その京の都で、人は死んでゆくばかりである。板小屋の前の薄い陽だまりのなかにへたりこみ、今にも割れそうな頭であてのない行末を思うていると、いつか夕暮れであった。夕映えが、眼の前の小路や背後にならぶ板小屋を赤々と染めだしていた。
ふと見た西空に、陽は実際には見えなかった。しかし一瞬、おれは満面に血をしたたらせて落ちてゆく、大きな入陽を見た。一年前の春、それは神様の島(注;雄島のこと)の草の茂みのなかで見た、兄者を呑んだ海に沈む入陽であった。あのときの恐怖が、ふいにおれをつかみとった。唇はわなわなとふるえだし、どうにもおさまらぬ。眼には赤い光がみなぎり、光りのなかに、わずかに小路と土塀の輪郭だけがみえた。・・・おれは今、どこにいるのであろう?一年前とおなじ禁忌の、神様の島に今もいる。しかしあのときには、逃げて、逃げて、逃げつづけて、たどりついた所はおなじおそろしい入陽のそばではないか。兄も母も鋳物師も、もうどこにもおらぬ。逃げ場がないままに、おなじ死の恐怖にまた耐えつづけなければならぬのはおそろしい。眼前に死をみつめ、そして何ごともなく、ついに何もなくなるという恐怖に、もう耐えられぬ。今にも錯乱しそうな頭をかかえて身動きもできず、おれは徐々に高まってくりかえし押し寄せる恐怖の波を浴びて五体をふるわせながら、はよう楽になりたいと希いつづけていた。
・・・見玉尼様、それは寛正の第二の年の春のことであった。貴女様はあの春を、どのように過ごされたのであろう?おれはすでに孤児であったが、おれより二つ三つ年上の貴女様にも実の母上様はすでに亡く、しかも父上の蓮如上人様のおそばをはなれて、当時は神楽岡の麓近く、摂受庵という所で御妹の寿尊尼様とごいっしょに、御幼少の身を比丘尼の道に捧げて修行を積んでおられたとうけたまわった。尼寺の奥深くにこもり、み仏様の前に小さな手をあわせて、ひたすら浄土のみ教えを学んでおられた貴女様は、近くをながれる加茂の河原の惨状も、きっと眼にされたことはあるまい。父上様のおそばをはなれられたとはいえ、摂受庵の御住職には大叔母の見秀尼様もおられたという。とぼしい食事に耐えながらも、肉親のあたたかな庇護のもとにあって、餓死に瀕した思い出は貴女様にはなかったであろう・・・
見玉尼と鮫は後年、吉崎の地であいまみえる。
というふうにこの単行本をオープンカフェで読みすすめていた夕刻、若く美しい女(ひと)が現われた。歓談が終わり帰ったあとに、それなりにそれなりの女(ひと)が現われ、またも歓談。
晩酌を終えたあと、夜はひとりで空の星を眺め続けた。
鮫は守護大名朝倉敏景の軍勢に足軽として加わる。加茂川の土手につらねた篝火の下で見張りに立った時、周知の下人の顔を見出し、酒を酌み交わす。下人は「現世のためには朝倉敏景殿、後世のためには蓮如上人様、お二方に忠勤をはげんでおる」と、思いを吐露する。
・・・「その蓮如という坊様は、北国のどこへゆくのよ」
下人のなが話が終わったとき、おれが訊ねたのも、気がむいたときにそこへ行けば、もう一度貴女様に会えると思うたゆえであった。
「吉崎じゃ」
「吉崎とはどこじゃ」
「越前の国の北のはずれ、加賀との国境の海辺じゃ。海のすぐきわに、北潟という名のひろい湖がある。湖のほとりに、低い山がある。蓮如上人様はその山の頂上を切りたいらげて、大きな道場をおつくりになる。そこで説法なさるのじゃ。いやらしい土民でも、銭のない貧乏者でも、信心の話を聞きたい者はみんなこい。さように仰せられて、北国に本願寺様の信心をおひろめになるのじゃ。わしらがように何のとりえもない下人土民ばらをば、阿弥陀如来様がおつくりなされた極楽浄土に迎えていただくための、正しい念仏の仕方を説いてくださるのじゃ」
・・・下人の話によれば、東山大谷にあった本願寺が、寛正第六の正月に焼き討ちを喰ろうたあと、蓮如上人様は山門の追求の手をさけて、ながいあいだ近江の各所を転々としておられた。堅田本福寺の法住様や、金森の道西様など、近江の信徒はよく助けた。執拗に御上人様のあとを追う僧兵やその一味と、何度も合戦した。しかし山門との和議はすこし前にようやく成りたち、御上人様はそのころ、琵琶湖の西南岸のあたり、近松という在所に顕証寺という寺をつくってお住まいになっていた。そこで京へもどれる日を待ちのぞんでおられたが、その近江も、昨文明第二の秋に京極持清殿が病死したあと、南近江の西軍、六角高頼殿が反撃に転じて、今日に変わらぬ戦乱の巷となりかわった。布教は思うようにははかどらぬ。蓮如上人様はこれを機に越前に出向いて、北国の門徒の信心を正そうと、固く覚悟なされた。越前の守護職におさまった朝倉敏景殿に庇護をおたのみになるため、今日は朝倉の陣までおでましになったのであった。
下人が仕える和田の一党は、足羽郡和田村の国侍であった。信心はまことにあつく、代々の総領が本覚寺を継ぐしきたりで、当代では蓮光という坊様が一族の首領であった。しかし家を保持するためには、朝倉に忠勤をつくさねばならぬ。忠勤の甲斐あって、今では興福寺大乗院領の荘園、坂井郡河口庄の、細呂宣郷下郷の別当職を恩賞に得ていた。秋には六十町の田からあがる年貢をとりに、和田党は細呂宣まで出向く。蓮如上人様が道場をおひらきになるという吉崎は、この細呂宣郷下郷にあった。和田党が尽力して、御上人様のものとなった。下人はそれゆえに、吉崎の風光をよく知っていた。おなじ越前に生まれたとはいえ、小さいときに在所を出たおれは、自分がそだった安島の在所から、浜づたいに東へ五里ほど行った所にあることさえ知らなかった。・・・
この単行本のごく一部をペーパーからデータに逐一転換していて疲れた時、著者の履歴を調べた。
著者は、高橋和巳・小田実・芝田翔らと共に同人誌「人間として」に拠り、文学・思想活動を展開する、と書いてある。「なるほど、夭折の小説家高橋和巳を思い起こさせる」と、私は思った。