2012年12月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日

 
 2012/12/08 (土) 山里


昨日の早朝、何故か僕は山竹田にいた。山里の集落である山竹田はすでに雪の世界だった。





山里は 冬ぞ寂しさ まさりける
   人目(ひとめ)も草も かれぬと思へば      源宗于朝臣



路上のみならず、周囲の山々も雪化粧して冬本番に入ったことを実感した。


 2012/12/07 (金) もう週末か


←冬のいでたちとなった私


昨晩の手話サークルで忘年会の話が出てきたのだが、ここしばらくの間の予定がつかない、というかつけることができない。
・・・と思いながら就寝し4時に起床。


新聞を拡げると、お悔やみ欄に、「オスカー・ニーマイヤー氏(ブラジルの建築家)  5日、リオデジャネイロ市内の病院で死去、104歳。肺炎や腎臓疾患により入退院を繰り返していた。米ニューヨークの国連本部ビルやブラジルの首都ブラジリアの主要建築群を設計した。07年12月、当時の首都リオ生まれ。47年に国連ビルの設計プロジェクトにフランスの建築家ル・コルビュジェ氏とともに参画。計画都市ブラジリアで大統領官邸から教会までの建築群を手掛けた。建築作品は600件を超える。88年に建築界のノーベル賞とされる米国のブリツカー賞を受賞した。」と出ていた。
巨匠中の巨匠の死だ。


 2012/12/06 (木) 小さな湊町なのに

宮野力哉著「小さな湊町なのに」を読み終えた。
著者は三国の船大工・石松を先祖に持つ。その著者が取り上げた対象は「画家エッシャーの父」「岡倉天心の父と母」「 彫刻家山田鬼斎」「北前船と船大工石松」「湊町明治の盛衰-三国と横浜」「三国あれこれ」である。


・・・寛文十二年(1672)日本海を下関まわりで大阪へ達するいわゆる「西廻り航路」が開発され、そのころになると関西でつくられた弁財船が出現してくる。帆走性能が悪く漕帆兼用の羽賀瀬船、北国船は性能のいい弁財船に徐々に取り替えられていったのである。西廻り航路ができるまでは米をはじめ船荷は敦賀か小浜に着き、馬で琵琶湖北岸の塩津浜にでる。塩津から琵琶湖特有の「丸子船」に積み替え、大津方面に向かった。・・・

という文章を読み進むにつれ、三国湊の往時の繁栄ぶりがわかった。そしてそのことで三国文化が熟成し何人かの才人を生んだこともわかった。


その三国湊は明治後期から衰退に向かうのだが、原因は鉄道(国鉄)が三国湊経由とならずに内陸部直進つまり金津駅経由となったことにある(参考・福井世間遺産)。


考えてみれば世の中全て盛者必衰である。盛者必衰といえば祇園精舎である。


祇園精舎の鐘の声
所行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ
ひとへに風の前の塵に同じ
遠く異朝をとぶらへば
秦の趙高漢の王奔梁の朱唐の緑山
これらは皆旧主先皇の政にも従がはず
楽しみをきはめ諌めを思ひ入れず
天下の乱れんことを悟らずして
民間の憂ふるところを知らざりしかば
久しからずして亡じにし者どもなり
近く本朝をうかがふに
承平の将門天慶の純友興和の義親平治の信頼
おごれる心もたけきことも
皆とりどりにこそありしかども
ま近くは
六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公
と申しし人のありさま
伝へ承るこそこころも詞も及ばれね
その先祖を尋ぬれば
桓武天皇第五の皇子、
一品式部卿葛原親王九代
の後胤、讃岐守正盛が孫、

形部卿忠盛朝臣の嫡男なり
かの親王の御子高見王
無官無位にして失せたまひぬ
その御子高望王の時
初めて平の姓を賜はって
上総介になりたまひしより
たちまちに王氏を出でて
人臣に連なる
その子 鎮守府将軍良望
のちには国香と改む
国香より正盛に至るまで
六代は諸国の受領たりしかども
殿上の仙籍をばいまだ許されず


 2012/12/05 (水) 本日は特別委員会


松龍寺前の道はかって加越交通路の一つで中川から権世市野々村を経、風谷峠を越えて加賀国風谷村に至る往来の盛んな道であった。 

 今から約五百年前、加賀・越前の国には一向一揆の嵐が吹き荒れていた。ここ松龍寺あたりも加賀・越前一向一揆勢と朝倉勢との抗争の主戦場となったところである。北陸七国志に「帝釈堂口合戦玄任討死亡魂」と題する戦記があり、朝倉始末記には「越前加賀之一揆蜂記帝釈堂怨霊之事」にこの時の戦の模様が詳しく記されている。これに因れば、越前を追われて加賀国に逃亡していた和田本覚寺、藤島超勝寺の大坊主と能登・加賀の一揆勢は越前を支配しようと永正四年(1507年)七月二十八日口々に弥陀の名号を唱えながら風谷峠より侵入し、坪江郷帝釈堂口に打って出た。この動きをあらじめ察知していた朝倉勢は急遽兵を差し向けたところ、一揆勢は辺り一面に火を放って我先にと逃げ出した。しかし、一揆勢の中に加賀石川郡の玄任という剛の者が、手勢300余人と一歩も退かず激しく戦って終には朝倉勢に取り囲まれて枕を並べて討ち死にしたという。それから30日ばかり過ぎて、帝釈堂の付近に夜な夜な化生の者が現れ、雲の上から鬨の声、兵馬の馳せ合う音、首の無い白い骸が現われたりして村人を恐れさせた。そのことを聞いた豊原寺の増信上人は昼夜法華経を読誦し、卒塔婆を立て廻向してから亡霊も出なくなったという。この帝釈堂は現在松龍寺の裏手にあり、昔から「中川の宮」と伝えられ、帝釈天と毘沙門天を祀ってある。

 松龍寺前にある三体佛堂は江戸中期に北村の児嶋五郎右衛門が、古戦場の亡者供養のために建立したものといわれている。石屋根のお堂の中央に阿弥陀佛座像、脇侍として右側に観世音菩薩、左側に地蔵菩薩が祀ってある。

 帝釈山松龍寺はもと天台宗で奈良時代養老年間に泰澄大師が開基し、仏法の守護神帝釈天を祀ったという。その後八百余年を経て永正の一向一揆の兵火により寺は焼失したが、住職霊仁和尚は草庵を結んで死者の霊を弔っていた。承応元年(1652年)、越前国藩主松平家菩提寺の運正寺の住職教譽が藩命により、弟子逸秀をこの寺の住職とし寺運の繁栄を図り、知恩院を本山とする浄土宗に転宗した。寺紋も徳川葵に改め現在に至っている。優美な山門兼鐘楼は丸岡城の裏門を移築したもので江戸時代の建物で、境内にある千体佛堂の阿弥陀佛は当寺二四世達譽智山が熊坂大仏の彫刻のとき出た木屑を一つ一つ佛像に彫り上げたものである。


数日前に開かれた蕎麦会の会場が松龍寺だったので寺に入る時寺を出る時、「三体佛堂」を横切る。朝倉勢と一向一揆勢の生残な戦いがどうしても頭を横切る。


 2012/12/04 (火) 雨の朝


昨晩は、元市議ふたりとともに三人で焼き鳥屋にいた。往時を偲んで話の種はつきなかった。焼き鳥屋を出てからは、私の事務所で二次会となった。たまには過去を語り合うこともいい。


明けて本日は12月議会定例会初日でかつ衆議院議員総選挙公示日ということで、盆と正月が一緒にきたような按配となった。


20日以降まではあわただしい日々が続きそうだが、仕方ない。年末になって小銭が残っていたら、温泉宿へ行きひとり熱燗をすすりながら「旅の宿」でも歌っていよう。


 2012/12/03 (月) 新しい週入り 


昨日の午前中は、明社の街頭募金であわら市内の何箇所かを回った。某スーパーマーケットへ行った時、エントランスでズワイ蟹とセイコ蟹が茹でながら売られている。「鳥取産」「兵庫産」「石川産」とレッテルされたそれぞれのボックスからいい匂いが漂ってきて、食欲が多いに刺激された。



 2012/12/02 (日) 日曜日の朝に

←冬ごもりしたモンステラ


昨日、丸岡にある糸川選対事務所から自分の事務所に戻ったら、駐車場にうっすらと雪が積もっていた。車から降りると体が芯から冷えてくる。脳内出血という既往症を持つ身には寒さが一番こたえるのである。


一服してから某料亭へ。
そこでは「平成24年度金津地区区長会役員会」が開かれていた。そこへ我々旧町内選出の議員5人がオブザーバーとして参加したわけだ。


懇親会では、実のある意見交換ができたと思う。日本酒と焼酎でほろ酔い加減となり、ロビーのソファで体を休めていた僕に声をかけてきたのは、某地区の区長。不慮の事故で子を亡くしたその人と話をした。「経験した者でないと、絶対にその気持ちはわからんわな」と言う。お互いぼそぼそ話だったが、心に染みる時間帯だった。


 2012/12/01 (土) 今日から師走


今日から師走。
議会定例会が始まりCADに追われるさなか、突然の衆議院議員選挙そして当然のことながら幾つかの忘年会誘いもあるという、かって無かったような忙しい日々が12月中旬までは続きそうで、なんとなく憂鬱。


憂鬱な時にいつも頭に浮かんでくるのが和泉式部の
暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき
  遥かにてらせ 山の端の月
 です。


娘を失った和泉式部にとっての日々は山道をさすらうのと同じで、目の前には暗闇しかない。そういう時、山の端に月が上り始めるのを見て、はやく全体の姿を現してほしい、あたり一面を明るく照らしてほしいという願いが強くこめられた歌だと言えるでしょう。