松龍寺前の道はかって加越交通路の一つで中川から権世市野々村を経、風谷峠を越えて加賀国風谷村に至る往来の盛んな道であった。
今から約五百年前、加賀・越前の国には一向一揆の嵐が吹き荒れていた。ここ松龍寺あたりも加賀・越前一向一揆勢と朝倉勢との抗争の主戦場となったところである。北陸七国志に「帝釈堂口合戦附玄任討死並亡魂」と題する戦記があり、朝倉始末記には「越前加賀之一揆蜂記附帝釈堂怨霊之事」にこの時の戦の模様が詳しく記されている。これに因れば、越前を追われて加賀国に逃亡していた和田本覚寺、藤島超勝寺の大坊主と能登・加賀の一揆勢は越前を支配しようと永正四年(1507年)七月二十八日口々に弥陀の名号を唱えながら風谷峠より侵入し、坪江郷帝釈堂口に打って出た。この動きをあらじめ察知していた朝倉勢は急遽兵を差し向けたところ、一揆勢は辺り一面に火を放って我先にと逃げ出した。しかし、一揆勢の中に加賀石川郡の玄任という剛の者が、手勢300余人と一歩も退かず激しく戦って終には朝倉勢に取り囲まれて枕を並べて討ち死にしたという。それから30日ばかり過ぎて、帝釈堂の付近に夜な夜な化生の者が現れ、雲の上から鬨の声、兵馬の馳せ合う音、首の無い白い骸が現われたりして村人を恐れさせた。そのことを聞いた豊原寺の増信上人は昼夜法華経を読誦し、卒塔婆を立て廻向してから亡霊も出なくなったという。この帝釈堂は現在松龍寺の裏手にあり、昔から「中川の宮」と伝えられ、帝釈天と毘沙門天を祀ってある。
松龍寺前にある三体佛堂は江戸中期に北村の児嶋五郎右衛門が、古戦場の亡者供養のために建立したものといわれている。石屋根のお堂の中央に阿弥陀佛座像、脇侍として右側に観世音菩薩、左側に地蔵菩薩が祀ってある。
帝釈山松龍寺はもと天台宗で奈良時代養老年間に泰澄大師が開基し、仏法の守護神帝釈天を祀ったという。その後八百余年を経て永正の一向一揆の兵火により寺は焼失したが、住職霊仁和尚は草庵を結んで死者の霊を弔っていた。承応元年(1652年)、越前国藩主松平家菩提寺の運正寺の住職教譽が藩命により、弟子逸秀をこの寺の住職とし寺運の繁栄を図り、知恩院を本山とする浄土宗に転宗した。寺紋も徳川葵に改め現在に至っている。優美な山門兼鐘楼は丸岡城の裏門を移築したもので江戸時代の建物で、境内にある千体佛堂の阿弥陀佛は当寺二四世達譽智山が熊坂大仏の彫刻のとき出た木屑を一つ一つ佛像に彫り上げたものである。
数日前に開かれた蕎麦会の会場が松龍寺だったので寺に入る時寺を出る時、「三体佛堂」を横切る。朝倉勢と一向一揆勢の生残な戦いがどうしても頭を横切る。
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