2012年04月

 1日-10日  11日ー20日  21日ー31日
 
 2012/04/20 (金) 朝飯を食ったあとで


林清子著・「黄水仙のみた夢」(文芸社)は上手い文章とはいえないが、日中戦争・太平洋戦争当時の金津が時代背景として物語られているので、ついつい一夜にして読了。


今朝僕は味噌汁を飲みながら、本に記されていることをお袋と語り合った。お袋によると、我が家とも関係があるらしい。
俄然興味が深まった。当時を詳しく調べてみようと思う。


げに
人生は歴史
人生は
人生は男と女
人生は港町ブルース
  なのである。


 2012/04/19 (木) 昨晩は少しだけ酩酊


昨日は、午前中に全員協議会が開かれ、午後は第59回あわら市議会臨時会が開かれた。


提出議案は
議案第47号  専決処分の承認を求めることについて
(平成23年度あわら市一般会計補正予算(第6号))
議案第48号 専決処分の承認を求めることについて
(平成23年度あわら市モーターボート競走特別会計補正予算(第3号))
議案第49号 専決処分の承認を求めることについて
(あわら市税条例の一部を改正する条例の制定について)
議案第50号 専決処分の承認を求めることについて
(あわら市国民健康保険税条例の一部を改正する条例の制定について)
全議案は全員賛成で可決された。





時間の合間を縫って僕は金津図書館へ行き、林清子著・「黄水仙のみた夢」を借りてきた。
昔、金津町水口に山寺があった。知る人ぞ知る金津町水口にあった山寺(尼寺)に大変ゆかりのある本だ。


その序章はこう書かれている。


「人生はドラマだ」と、しみじみ思う。
私も、我が舞台で、いくつかのヒロインを夢中で演じてきたが、果たして、名演技だっただろうかと自問する。
でも、「黄水仙のみた夢」という題名の舞台では、相手役のリードもあって、私は好演したと自負している。
私が物心ついた頃、開演のベルはけたたましく鳴り響き、どん帳は、するすると巻き上げられたのだ。そして、日中戦争、太平洋戦争という巨大な渦が二人を巻き込み、戦中戦後と、私は青春の真っ只中にいた。
戦争によって生じた悲劇は、戦後五十年余りの間に、語り尽くされた感もあるが、私も「書きたい!」という強い衝動にかられ、生まれて初めてペンを執った。
それは、至難の技であった。
しかし、私の最大のテーマは、「真(まこと)の愛」についてである。
あの、暗雲に閉ざされた青春の中で、明々と燃えつづけた一点の灯を、私は決して忘れないだろう。それはただ、私の青春の一こまに過ぎないのかも知れぬが、私はこの物語を、どうしても、このまま葬り去るに忍びなかった・・・。
そして、行が進むにつれ、こんな青春のあったことを、現代の若者に知ってもらいたい。現在の自由と、平和のありがたさをかみしめてもらいたい。その切実な願いが、私を励まし、勇気づけ、脱稿せしめた。
また反面、殺伐たる世相に住む若者達の一服の清涼剤たらばの祈りもこめて。
                                              
                      二〇〇二年十二月    林清子
 


 2012/04/18 (水) 夜空


昨日の夜空は、星がいっぱいだった。
東日本大震災で亡くなり星となったひとたちが淡い光りを放っている。


真砂なす 数なき星の其中に 

           吾に向ひて 光る星あり

こう歌った正岡子規は、脊椎カリエスでずっと病床にありガラス戸ごしに夜空をみあげてうたったのだろうが、これは恋愛の歌ではないと思う。去って行った知人を思う愛の歌だと思う。


 2012/04/17 (火)  今晩は密議


文芸春秋4月号をペラペラとめくっていたら、こういうことを書かれている。



五木寛之は「絆」という言葉が好きではない。本来絆とは、動物や家畜の足を縛って自由を奪うという意味だからだ。


「3・11は日本人にとって「第二の敗戦」ではないかと思います。私には三陸海岸の無残な風景と、広島の原爆の焼け野原が重なってみえました。しかし、敗戦と3・11ではまったく違うこともあります。
第一の敗戦のときは、「国敗れて山河あり」という感じでしたが、山々は繁り、水は清く流れていました。ところが3・11の場合は、「山河破れて国在り」ではないか。


津波によって海岸線は破壊され、大規模な地盤沈下が起きて地形が変化しました。何よりも、放射能による目に見えない汚染が山にも川にも海にも広がってしまいました。
しかし、国のあり方は戦後とはまったく違います。敗戦後には各地に闇市ができ、アナーキーな状態が出現しました。ブローカーが財をなし、人々は非合法な手段を用いてまで、自分の生活を自分の手で守りました。警察ですら時にはやくざと手を組んで治安維持法にあたった。国家権力というものがつぶれてしまったからです。
しかし3・11では国の機構は厳然として存在していました。にもかかわらず、救援するにしろ、瓦礫を処理するにしろ、徐染をするにしろ、なかなかうまく進みませんでした。
法令の不備や所管官庁の認可など、国のいろいろな決め事によって金縛りになってしまったのです。 まさに国と民との間の大きな「絆」が、復興の障害になっていました。
戦後の六十余年の間に、国の力がどんどんと大きくなったのです。増税の問題にしろ、原発再稼働の問題にしろそうです。逆に民の力はどんどん制限されてきているのではないでしょうか。
僕も「絆」という言葉が、あまり好きではない。


 2012/04/16 (月)  やっと修復


昨日一昨日と、このブログのアップロードがうまくいかず、本日やっと修復。
その間に民主党・仙石氏の原発再稼働先にありき的話を聞いたり、嶺北消防署の消防訓練があったり、全自交の要望書につきあったり、坂ノ下八幡神社の花見の宴に出たり、




三丈山に登ったり、花村萬月・「信長私記」を感心して読んだり、CADに追われたり、何人かの来訪者の応対をしたり要するにいろいろ忙しかったです。


 2012/04/15 (日)  桜


昨日は、レンゴーグラウンドに桜の咲き誇りを見にいった。


世の中に 絶えて桜のなかりせば 
          春の心世は のどけからまし   在原業平

が、僕のすきな桜歌で、満開桜には死相がただよっている。


それはともかく、本日は八幡神社境内で花見の宴だ。


 2012/04/14 (土)  昨日の一日


昨日の午前中は坂井健康福祉センターへ行き、あわら市内のゴミ不法投棄の現況について話し合った。
ポイ捨て罰金で有名な有名なシンガポールでは、ガムを噛んでいるだけでも駄目なのだそうである。


センターから自宅へ戻りお袋を車に乗せて三国町の眼鏡屋へ。彼女が眼鏡を紛失してしまったので購入のためだが、眼鏡ができるまでの間に蕎麦屋でお袋と一緒に食ったおろし蕎麦が滅法美味かった。大根おろしがひりひりする程辛く、その辛さがたまらない。


事務所に戻ってからはCADに専念した。
夕刻に中年女性が来訪。才気煥発でいかにも元文学少女という感じ。
「本は誰にも邪魔されない自分だけの世界をつくってくれるわ」という台詞を残して帰って行った。


 2012/04/13 (金) もう週末か


「議会報告会」が近づいてきたので、昨晩は手話通訳をしていただく予定のTさんと一緒に議会用語の勉強をしていた。


いつもは白河夜船となっている時間帯なのだけれども、手話に関しては、とても真面目になってしまう。


京都の東山区で起きた大惨事の原因が軽自動車の運転者のてんかん発作によるものではないか?と新聞が書いている。


てんかん発作に関する知識が僕には全然ないが、医師による的確な診断と警察による的確な運転指導が今後求められる。


と同時に脳梗塞による後遺症を持つひとたちも又そういう事故の可能性を潜在的に持っていることを心に銘記すべきだ。


3年前に脳内出血で半年間の医大病院入院生活を送っていた時、僕は同部屋のひとたちといろいろ語り合ったが、うちふたりは「運転中に脳梗塞を起こし、必死で車を道端に停めたあと、救急車を呼んだ」と言っていた。


そういう意味では僕も車の運転中に再発する可能性があり、梗塞を経験していない健康人でも初発の可能性がある。


 2012/04/12 (木) 久しぶりにほろ酔いした昨夕


昨日、議会事務局に行き所用をこなしたあと、某議員から「あとで酒持って事務所へ行く」と言われた。
「日の暮れないうちから飲んで構わないのだろうか」と一瞬思ったが、誘惑に弱いのが僕の持ち味なのだから持ち味を失ってはならないと思い直し、了解。


某議員が持ってきた酒は高級ブランデイ・高級ウイスキー。





あれほど焼酎一辺倒だった僕の好みも最近は変わってきている。即ち洋酒志向が進行しているのだが、対酒にしろ対人間にしろ変わることに不思議はない。


幕末福井藩主・松平春嶽の政治顧問で、坂本龍馬の「船中八策」の原案となる「国是七条」を説いた横井小楠も、「変節することが大事」と書いている。


 2012/04/11 (水) 雨日記


きのうも触れましたが、画面左側コンテンツ・「議会報告会へのチラシ」及び「班編成」を御覧ください。


今朝の5時、僕は山道を歩いていた。風強く、樹々はうなりをあげ揺れている。現在、環境対策調査特別委員会で問題となっている不法投棄現場に来た。投棄業者による搬出作業は既に始まっているが、相当の量が投棄されているのではないか、と個人的には思えた。


帰途、花乃杜トンネル附近で車を停め、歩いた。空き缶やゴミやなんやかんやが道端に捨てられている。
人間とは卑怯なもんで、人家が近くにないつまりひとから見られないところではポイ捨てをするのだ。


僕は自宅近くのお寺裏側に設置されている立て札・「ここにゴミを投げないでください。お釈迦様が見ておられます」を思い出した。
①この立て札ではキリスト教信者に対しては効果がない。
②見ていなかったら、捨ててもいいのか。そうでもあるまい。