思い出したことがある。
二週間ほど前だったか。
私の事務所への来訪者から「俺が愛し合った女性が、今年になって三人も亡くなった。俺はさみしい」と言われた。
女性にもてたことのない私は、「同じ人間とは思えない。世の中には艶福家という者が本当にいるんやなあ」と、素直に感動した。
ということはともかく
昨日の午前中は中央公民館において「あわら市社会福祉大会」が開かれた。
中央公民館に着いた時、後遺症のある私もなんとかエントランスの上がり框をあがることまではできたのだが、脱いだ靴を収納棚に入れることが困難だ。四苦八苦していたところに、玄関受付役の女性三人のうちのひとりがそっと手をさしのべてくれた。男性にとっての介添はやっぱり女性の方がいい。
9時半から式典が始まった。手話通訳はかって一緒に手話を勉強していた人なので、私は彼女が動かす手をじっと見詰めていた。(大会終了後の帰り、偶然出会った彼女は「牧田さんにチェックされてるようで恥ずかしかったわ」と微笑んだ)。
式典のあとの記念講演のタイトルは「障がい者が光り輝く組織とは何か」で、講師は
坂本光司さん。
坂本氏の軽妙な語り口はとてもわかり易くて、多くの聴衆の共感を得たに違いないが、にも関わらずぼくには少しの違和感も残った。
氏は、「経済学者でしかない私には政治家のような権力も無いし、銀行家のような金融力も無い。しかし人に負けないだけの筆力と(それに裏打ちされた)しゃべる力がある。障害者との日々の接触の無い自分の仕事は、障害者が中心となって運営する企業を世間に向かって宣伝することだ。そのことによってそういう企業がほかの企業同様に維持されることを目標としている。」と言っていた。
なるほどなあと思いつつも、障害者あるいは障害者との日々の付き合いのある健常者の耳にはある種の戸惑いの残る言葉ではないかと思った。
とは言え、脳が軟化しつつある私がその思いをしっかりした論理で語ることができない。語ることができるまでにはひたすら考える時間が必要だ。
それはともかく
熊坂村誌から(1)
五右衛門翁は、慶応元年六月三日、坂井郡熊坂村、熊谷家の長男に生まれた。当時は幕末激動の頃で、開国、倒幕の意見が交錯して、容易ならぬ政治情勢となっていた。周囲を山にかこまれて情報の少ない村人たちは、体力だけを頼りにして、一途に炭を焼き、山田を耕して飢えから身を守っていたのである。
熊谷家は素封家で、父祖以来郷土のために貢献し、先代は情深く、凶作の年貢を減免し、また集落を代表して藩に陳情し、村人から感謝されていた。
或る年、役人から「その方は毎年、去年よりも不作だと云っているが、今に熊坂の田からは一粒の米も取れなくなるのではないか。」と詰問されたが、「熊坂は女の頭髪でございます。梳るたびに抜けますが今だと禿げにはなりません。」と答えたので役人一同大笑いして許したとの事である。
慶応四年九月、明治元年となり新政府が発足した。明治六年に敦賀県となり、同九年には石川県となり同十四年二月七日漸く福井県が誕生したのである。
五右衛門翁は明治六年九月に父を失い同十二年八月に母を失った。→(2)へ