2012年10月

1日ー10日  11日ー20日  21日ー31日
 
22012/10/20 (土) もう週末か


昨晩の午後7時、僕たち十数人は某料理屋に集まった。久しぶりに開かれる金津中学校同窓会に向けての打合せが目的である。同窓会代表S君による当日の段取り説明が終わってからは、無礼講の飲み会となった。


酒の効用というのは確かにある。日頃陰にこもっている僕も、ビールを隣席女性から注がれ、焼酎とチャンポンに飲み進めているうち、陽気な気分になっていった。そういう気分になると、日頃無口である分だけどうやらしゃべりすぎたようだ(と真向かい席の友人が言っていた)。


「酒と音楽と売春は人類史をどれだけさかのぼっても既に存在していた」と、ある青年がしたり顔で僕に語ったことがあるが、どの時代にもどんな辺境の地でも(後者のふたつはともかく)種類を問わず酒は存在していた。そして酒にまつわるエピソードは歴史書のなかに多く書かれている。


22012/10/19 (金) さて今晩は飲むぞ


決算審査特別委員会が終わって、夕刻に事務所へ戻った。本日は某料理屋で飲み会の予定が入っている。飲み会の時刻までのしばらくの時間、ぼくはオープンカフェに出て一番星を眺めていた。


車椅子の天才物理学者・ホーキングは、一般庶民向けにこういうことを言っている。


「デモクリトスは物質をどんどん小さく切っていったらどうなるかを考えた。彼は、細かくしていくプロセスを無限に続けることはできないはずだと考えた。そして、すべての生物を含むあらゆるものはそれ以上分解できないような基本的な粒子から構成されているはずだと考えた。


伝統的な世界像では、物質は明確な唯一の経路を運動し、歴史を持っており時間の瞬間、瞬間に於いて正確な位置が決まっていることになっている。確かに、このような考えは日常の生活に十分うまく合致しているが、1920年代に、この『古典的な』描像では原子やそれより小さなミクロの世界で起こっている奇妙なふるまいをうまく説明できないことが分かった。代わりに、量子物理学と呼ばれる異なった枠組みを採用することが必要だった。量子論はきわめて正確に、ミクロの世界を記述できることが分かった」


僕が日常生活をしていくなかで感じる無限とか永遠とかいう概念は単なる比喩的なものでしかないが、量子論は恐らく四次元の世界を仮説することによって時間や空間に虚と実の世界をイメージさせるのである。
つまり、生きることの喜びも悲しみも虚無というブラックボックスのなかに飲み込まれていくものということをイメージさせるのである。


この三年間、僕が思ってきた「生死一体」をこの記述は論理化させているのではないかと思う。


22012/10/18 (木) ちょっと思ったこと

練り上げられた書きことばの強さ美しさ正確さがあれば
わたしたちの日常の話しことばがどんなに多様で
無茶苦茶であっても構わない。
きちんとした書きことばが乱脈な話しことばの重しになるからだ
                    「日本語日記」
と井上ひさしが書いているが、井上の確か処女作であった「手鎖心中」はそれ故にか見事な物語であったと、記憶する。


そういうことを考えていると、人の沢山いる場へ出かけるのが億劫になって、昨日もソファにゴロ寝しながら本を読んでいたら、妻がぼくの仕事場に入ってきて、「日中は外に出る方がいい。外に出て人と接触すれば気分も晴れる」と言われた。


そこで外へ出かけたのだが、気づいたことがひとつある。
それは、「好きな人は好き 嫌いな人は嫌い」ということで、これは人間誰しもなのだが、「大人は子どもの夕暮れ」と誰かが喝破したように、ぼくはどうやら子どもに戻っていきつつあるようだ。
それはともかく


天爵大神切り割りの道
 (撮影者・牧田)


天爵大神とは旧尾張藩士水谷忠厚で、明治の世となり失職したが、人々のために尽くす意思が強く、愛知県で数々の悪道を改修し、人々の難儀を救ったので、愛知県令国定康平が「天爵大神」の称号を与えた。
明治20年、吉崎参りにきた天爵大神、山越えの道を通り人々の苦労を身をもって味わった。山を切り割り新道を造ることを決意した天爵大神は、福井県知事石黒務の許可をとり、吉崎東別院に細呂木村の長老森藤右エ門、菅谷七右エ門、坂本伊右エ門を出頭させ、山を切り割りし新道を造り、吉崎参詣者の難儀を救いたいと説明し、その工事のために近村の農民の方々を作業奉仕の世話役をして欲しいと依頼した。
明治20年12月に工事が始まった。上坂伊右エ門が工事監督、飯塚藤エ門は現場指導役、吉崎願慶寺霊燐は教導使として天爵大神をささえた。
工事が始まると天爵大神は、毎日県庁の居室より馬にのり現場に出向き、人足の組分け、自らも鋤鍬を持って土をおこし、土を入れた。「もっこ」をかついだと伝えられている。掘った土は深い谷を埋め現在の新道が明治21年4月の吉崎蓮如忌前に完成した。参詣する旅人はこの新道を通りこの話を聞き、「ありがたいのう」と感動したという。
今、この垂直に切り割られた道を通り両側を見上げると見事で、こんな切り割道はちょっと見当たらない。何の機械力もないその当時は全て人力で、よくも4ケ月余りで切り割り谷を埋める工事がなしとげられたと思う。天爵大神の指導力とこの工事に進んで参加された我らが祖先の人々のために尽くすという旺盛なボランテイア精神に頭を下げざるをえない。
               朝倉喜祐著「金津町の歴史の道」より


なぜこんなことを書いたかというと、「あわら市議会だより今月号」の裏表紙に書いた「竹田新道碑」の内容とダブルものがあるからである。


2012/10/17 (水) 昨日の一日

昨日はなんやかんやと時間に追いかけられた一日だった。
午前中は金津トリムパークにて健康長寿祭。




午後は、「議会報告会」についての打合せ。
打合せが終わってから、金津中学校へ直行し、手話通訳についての打合せをこなした。担当の教諭はいかにも初々しかったが、これは職業柄シャバ慣れしていないことによるものだろう。

ところで
歌川は江戸期の俳人で三国の遊女だった。
例えば同じ越前の橘曙覧や隣国・加賀千代女が全国区であるのに対して、歌川はそうでもない。その理由が遊女だったことによると人づてに聞いたことがあるが、これは職業差別であり理不尽である。


歌川の師は巴浪
巴浪は金津美濃派の初祖願泉寺東也の次男、三国永正寺第十七世を継ぎ永言と称した。

郷土史関係の諸書によると、歌川は三国三昧に葬られたとあるが、三国三昧の廃止によって、その墓の所在は久しく不明であった。ところが、昭和二十九年の夏三国町大門の日蓮宗妙海寺で、墓地の移転整理を行ったところ、いまは無縁の豊田屋総墓台石の下から、妙春(歌川の法名)と書かれた木札の附いた納骨壷が出た。この総墓ははもと同町北小学校敷地にあった無縁墓地にあったものを、芦原温泉紅屋の先々代奥村氏によって、奥村家の菩提寺である妙海寺に移され、監理されていたものである。現紅屋の当主奥村藤五郎氏五代の祖に当る奥村喜兵衛は、木訥斎素仏と号し、三国の美濃派八代を継いだ人で、「晩年の歌川と交友があり、歌川の死後この墓を建ててその霊をなぐさめたといわれ、その後奥村家からは歴代俳人を生み、その人達によってこの墓は肉親のもののように守られてきた。」という。
墓は正面に
豊田屋先祖代々諸霊  釈妙了
右側面に
木訥斎素仏日応居士
瑞光院善祐日相信士
善林院素吟日妙信女   とある。


歌川の納骨壷が発見されたことは、土地の歌川研究家達を非常に喜ばせた。そうした矢先ひきつづいて第二の朗報が伝えられた。永正寺墓地から遂に歌川の墓が、三国郷土研究会の人達によって発見されたのである。


ということで昨夜のオープンカフェは風が強かった。星空を眺めている僕の耳元に重低音の風音が聴こえてくる。海鳴りの底から聴こえてくるようで、僕は「奥底の 知れぬ寒さや 海の音  歌川」を思い出した。


2012/10/16 (火) 本日は健康長寿祭


昨日の決算審査特別委員会は夕刻に終了。帰宅し熱い風呂に入ったあと、オープンカフェに出た。


白ワインを飲みながら、私は夜空を見上げた。星々のひとつひとつがこの世でめぐり合いそして去っていたひとたちに見えてくる。


星々と対話をしている時、携帯コールが鳴った。


「焼肉を食べに出てこないか」という同僚議員からの電話だった。
四人でホルモンをつついた。
孤独を好む私が同僚議員たちの饒舌を聞きながら静かに微笑している時、またもや携帯コールが鳴った。私があこがれている女性からのものだった。


電話を終えた私は気分が陽性になり、議員たちの会話にも積極的に加わった。


帰宅し仕事部屋に入ると、事務デスクの上に一冊の本が置かれている。石川銀栄著「越前俳諧史誌」で、一昨日Yさんから「読むと面白い」と手渡された本だ。


・・・ 芭蕉が北陸行脚の途上、もっとも逢いたいと思っていたのは、かねて芭蕉との面会を望んでいた一笑であった。元禄二年七月二十二日一笑の兄ノ松は芭蕉を迎えて一笑追悼会を執り行った。「塚も動け 我泣く声は 秋の風」


「奥の細道」より
・・・福井は三里ばかりなれば、夕飯したゝめて出づるに、たそがれの路たどたどし。〇に等栽といふ古き隠土あり。いづれの年にか江戸に来りて予を尋ぬ。遥か十とせ余りなり。いかに老いさらぼひてあるにや、将死にけるにやと人に尋ね侍れば、いまだ存命してそこそこと教ふ。市中ひそかに引き入りて、あやしの小家に夕顔へちまの生えかゝりて、鶏頭箒木に戸ぼそを隠す。さては此の内にこそと門を叩けば、侘しげなる女の出でゝ、いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ふものゝ方に行きぬ。もし用あらば尋ね給へといふ。かれが妻なるべしと知らる。昔物語にこそかゝる風情は侍れど、やがて尋ね逢ひて、その家に二夜泊まりて、名月は敦賀の湊にと旅だつ、等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立つ。・・・


「奥の細道」のなかで名文中の名文と言われているこの下りを読むと、読み手の自分が高邁な人間であるように思えてくる。言葉とは不思議なものだ。  


22012/10/15 (月) 杉田鶉山

昨日の日曜日、僕は「ふるさと語ろう会」のメンバーと共に杉田鶉山翁石碑及び代々の墓所前にいた。石碑寄贈者に多くの芦原温泉旅館の名が並んでいるのには驚いた。



続いて我々は鶉山翁生家跡を訪ねた。郡内きっての素封家であった杉田家所有の田地田畑は84町歩に及んだそうで、会のK氏によればこの数値は芝政を超えるとのこと。




その時、僕は某あわら市議から聞いた逸話を思い出した。鶉山翁が国鉄福井駅から自宅まで(随分の距離だ)をてくてくと歩いた時のこと。歩き疲れて大変に空腹となった時、田圃の畝に座りぼた餅を食べている農夫を見つけた。「ひとつ分けてくださらんか」と懇願して食べたぼた餅があまりにも美味しかったので「お礼に田圃一枚進呈します」と約束したそうだ。今の社会では考えられないスケールの逸話だ。


我々は鶉公民館に到着した。翁の石造の立派なこと。左手にサーベルを右手にナポレオン帽を持っている。



続いて公民館会議室に入り、我々十数人は館長から翁の功績のいろいろを聞いた。翁のたぐい稀な人格は父・仙十郎氏によるところが大きいとのことだった。館長の講話が終わり謝辞を述べた際、「あわら市にはいい会がありますね」と言われたのが嬉しかった。


帰りの車中で同乗者が「翁がその典型だが、議員は在任中に井戸を無くし塀を無くさなければいけない」と言う。それは確かにそうだが、もともと井戸や塀を持っていないものがこの世に残せるものはだけだと、僕は思った。


22012/10/14 (日) 芭蕉翁


朝日新聞 33面で『「奥の細道」修復終える』を読んだ。


江戸時代の俳人松尾芭蕉の「奥の細道」を清書した国重要文化財
「おくのほそ道素龍本」の修復が終わり、15、16両日、敦賀市新道
の民芸茶屋 孫兵衛」で特別公開される。
素龍本(108ページ)は能書家の柏木素龍が1694年に清書し、表紙
の「題箋」には芭蕉直筆で、「おくのほそ道」と記されている。1972年に
国の重要文化財に指定された。
芭蕉は1689年、江戸から東北などを経て敦賀を訪問。気比神宮や色浜
をまわり、俳句を詠んだ。素龍本に収録された50句のうち、4句が敦賀
の句だ。市によると素龍本は芭蕉の死後、門人や親類の手に渡った。
江戸中期に、現在は民芸茶屋を営む西村家に伝わったという。
今年4月から、住友財団の助成を受けて重要文化財の修理で実績のある
坂田墨珠堂(大津市)がしわや折れを伸ばし、修復した。
特別公開は15、16両日とも午前10時から30分間。無料。問い合わせ
は市民文化振興課(0770・22・8154)


僕がY氏と共に西村家住宅を訪れたのは20年程前。奥座敷で「おくの細道素龍本」を手に取った時の興奮を忘れることができない。和綴じの一枚一枚が薄いビニールで保護されていたがそれでも芭蕉翁と三百数十年の歳月を超えて、握手したのだと思った。奥座敷の縁側から眺める庭は広々として、その庭の中央にある高さ三尺程の石碑には「百年の 景色を庭の 落ち葉かな 芭蕉」と書かれていた。


202012/10/12 (金) 夜空の星々を眺めて宇宙を考える

夜毎に眺める星空は無限のキャンパスに描かれた無限の絵である。
昨晩の僕は僕はコンビニで偶々買った「宇宙の絶景」(宝島社)を眺めていた。
この本のなかで、いろんな人が、宇宙のことを語っている。


・「大宇宙の秩序は宇宙の存在を実証する」(カント)


・「宇宙には同一のデザイナーのしるしがある。だから、すべてのもの、唯一の、また同一の存在者に帰属するものでなければならない」(アイザック・ニュートン)


・「人間は、この宇宙の不良少年である」(オッペンハイム)


・「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作に過ぎないのか」(ニーチェ)


・「私たちは星を動かすようなもんだ 星なんて決められた所で光ってんだろう 人の一生だってそうさ・・・ちゃんと運命にしたがって生まれて死んでくんだ」(手塚治虫)


・「この世にあるたった一つの結び目 あの地平線の果てのあの光のたった一つの結び目 あれを解きに私は生まれて来ました」(石垣りん)


・「天体の運動はいくらでも計算できるが、人の気持ちはとても計算できない」(ニュートン)


・「そうだ。おやあおの河原は月夜だろうか・・・月夜でないよ。銀河だから光るんだよ」(宮沢賢治)


・「目は存在が宇宙と合体する穴だ。その穴から宇宙を存在の中に溶け込ます」(岡本太郎)


・「人はみな、自らの宇宙論をもっています。そして、誰もが自分の理論は正しいということができます」(アインシュタイン)


・「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」(アームストロング)


とまあいろんな警句が書かれているが僕にとっての白眉は
宮沢賢治「 まずもろともに輝く宇宙に塵となりて 無方の空にちりばろう」だろう。


2012/10/11 (木) 二日ぶりのブロブ


一昨日と昨日は厚生経済常任委員会の視察研修だった。
一昨日は栗東(滋賀県)市役所を訪れ、「地域ふれあい事業について」の内容を拝聴。

栗東市の敬老会は、あわら市と違い各自治会毎に行い、高齢者(69歳以上)の出席率は45%内外の高率である。あわら市の20%後半とは段違いだ。自治会毎だと顔見知りがかりなのでこういう数値になるのもなんとなくうなずける。
ともあれ12月議会で、委員長が詳しい報告をする予定です。


夜は、神戸湾一周クルージング。
僕は甲板の最上部に立ち、夜風をうけながら神戸市の夜景を楽しんでいた。



二日目は三木(兵庫県)市役所を訪れ、「空き家対策について」の内容を拝聴した。空き家対策はどこの自治体でも共通の課題となっている。
これも、12月議会で、委員長が詳しい報告をする予定です。