三月三十日 金曜日 歌は心の叫び |
夜が明けてきた。きょうは一日中金沢で缶詰だ。そろそろ支度にとりかからなければならない。
三月二十八日 水曜日 やっと復旧 |
さあ、又書き込むぞ。
三月二十六日 月曜日 あちこち動きまわらなければならない本日 |
三月二十四日 土曜日 今朝は晴れ |
三月二十三日 金曜日 無題 |
刈安の峠に立ちてひとまたぎ 越前越えて加賀を踏みたり
見おろせば越前平野にへばりつき 九頭竜川はにぶく光れり
雲垂れて越前平野の果つところ 日本海は静かに眠る
水さらさら刈安川のみなもとは 神代ながらに水澄に澄む
ふるさとはこがらしの里吹きこぼす どんぐりの実の音冴える里
劒ガ岳に雪は降りつつ麓より こども駆けだす声ほがらかに
「家族」
荒川の岸辺に立てば一生を 鮒捕りて死にし父しおもほゆ
母のみ顔知らで育ちしわれなれど 天澄む時は天に座す夢見ゆ
母の血のぬくもりのあり叔母の声 三歳のわれにしばし戻りぬ
かまど焚く薪折るたび傷つきて 血はにじみたり祖母のみ手はも
嫁の顔見て死にたしと思いけむ めとらぬさきに祖母逝きたまふ
弟とたらの芽つみしことありぬ 千束へゆくこの林に
防人となりて逝きたる弟よ いまはのはてに呼びし名は誰ぞ
いつ帰るとも定まらぬ夫待ち いまは子を待ち妻疲れたり
妻も犬も深き眠りに落ちぬれば つづけさまなる咳こらへたり
病室をいでゆく娘の背にむかひ ひそかに最後の別れを告げぬ
「ふるさとの風景」
腕白の陸軍大将がかけめぐりし 戦の庭に野菊咲くらむ
山寺の尼僧が時を告げし鐘も たすきをかけて戦さに征きぬ
河骨の黄色き花がゆれ動く 竹田の川の面なつかしきかも
蝉鳴くや熊坂集落の軒下に 米搗く臼のころがりてあり
北陸の雪の夜更けを流しゆく 目しひの人の笛か歎きか
都より帰りきたれる女ゐて 三味の音もれしむくげの垣根
ふるさとの社の裏の貝塚は 今も昔のままなるらんか
「ふるさとの味」
ふるさとの蟹とおかずにふるさとの 米炊ぐ今日のありがたきかな
蟹食へばふるさとの人なつかしく 古き手紙を読みかへすなり
北潟の湖よりとれし公魚を 食べ飽きるまで食べる楽しさ
釜底のおこげの味の恋しくて まき焚く村をたづね来にけり
ふるさとの粽着きけり時もよし みどり児なれど外孫も来ぬ
三月二十二日 木曜日 きょうは特別な日 |
三月二十一日 水曜日 きょうは春分の日 |
報道部に拠る永井麟太郎朗読会のことで夕刻に長谷川さんと一緒に金津中学校を訪れた際、顧問として対応してくださったのは旧知のY先生。僕は20年ほど前の3年間、金津中学校で手話の特別講師をしていたことがあるが、その時の手話顧問がY先生だった。
めぐりめぐって、彼女は金津中学校に戻ってきたのである。
そして昨晩は不思議だった。
一日の仕事の整理を終えてベッドインしたのが10時頃。しかしなかなか寝付けない。眠ろうと努力しながら眠れない煩悶の中にいたのだが、遂に夜明けは近い。そして覚醒した。
そう・・・
「眠れない」という夢をみていたつまり寝ていたのである。
あらとうと 青葉若葉の 日の光り 芭蕉
三月十九日 月曜日 無題 |
ベストを尽くそう。
ということで朝刊を開いたら、「内田康夫さん死去」の記事。
この人の本は数冊しか読んでいないが、浅見光彦シリーズは動画でほぼ全部見ている。娯楽性が強いミステリーで、焼酎を飲みながら(注昨日は来訪者稲田さんよりむぎ焼酎二階堂を頂いた。謝謝)全国の名所旧跡を眺めるのが楽しかった。特に体が不自由になってからここ10年くらいは映像でしか遠くの景色を楽しむ術が無いから。
三月十八日 日曜日 達川氏講演 |
私はパワーポイントで強く楽しく生きるを操作。
二時間の講演中、講師が私の配偶者を仕事の同志として何度も引き合いに出すのがおかしかった。夜は山川事務所で7人集まっての飲み会。長谷川さん手作りの料理は絶品だったが満腹になると眠気におそわれるという癖はなおらない。謝罪しつつ中座した。
三月十七日 土曜日 蛍川 |
この短編集には作者の実体験が色濃く反映されている。作者は僕と同世代で時代背景が昭和三十年代なので猥雑さをも含めて郷愁を強く味わうことができたが、わけても蛍川のラストシーンは二十数年前に読んだ時よりも強い印象に充たされた。
以下抜粋
・・・せせらぎの響きが左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が弾け散る川面を眼下に見た瞬間、四人は声もたてずその場に金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの蛍火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に描いていた華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
蛍の大群は、滝壺の底に寂寞と舞う微生物の屍のように、はかりしれない沈黙と死臭を孕んで光の澱と化し、天空へ天空へと光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって舞い上がっていた。
四人はただ立ちつくしていた。長いあいだ、そうしていた。
やがて銀蔵が静かにつぶやいた。
「どんなもんじゃ、見事に当たったぞォ」
「ほんとに、・・・・凄いねェ」
千代も無意識にそう言った。そして、嘘でなかったねェと言いながら、草の上に腰をおろした。夜露に濡れることなど眼中になかった。嘘ではなかった、千代は心からそう思った。この切ない、哀しいばかりに蒼く輝いている光の塊に塊を注いでいると、これまでのことがすべて嘘ではなかった。そのときそのとき、何もかも嘘ではなかったと思いなされてくるのである。彼女は膝頭に自分の顔をのせて身を固めた。全身が冷えきっていた。
「おったねェ・・・」
耳元にささやきかけてくる英子の息が、竜夫の中に沁みとおってきた。
「交尾しとるがや。また次の蛍を生みよるがや」
銀蔵の口調は熱にうかされているように、心なしか喘いでいた。
「傍らまで降りて行こうか?」
と竜夫が言った。
「なん、いやや」
英子は竜夫のベルトをつかんで引き留めた。
「ここから見るだけでええがや」
「なして?」
英子はそれには答えず、ベルトをつかんでいる手の力を強めてきた。竜夫は川のほとりに降りていった。
「竜っちゃん、やめよお、ねえ、行かんでおこう」
何度もつぶやきながら、英子はそれでも竜夫についてきた。間近で見ると、蛍火は数条の波のようにゆるやかに動いていた。震えるように発光したかと思うと、力尽きるように萎えていく。そのいつ果てるともない点滅の繰り返しが何万何十万と身を寄せ合って、いま切なく侘しい一塊の生命を形づくっていた。
竜夫と英子のいる場所は川にそった窪地の底であった。夜露が二人の膝元をぐっしょり濡らしてしまった。
竜夫は土手を振りあおいだ。ただ闇ばかりで何も見えなかった。そこからは月も樹木にさえぎられていた。
銀蔵も千代も頭上の草叢に座っているはずだったが、竜夫からは見えなかった。傍らの英子の顔までさだかではなかった。英子はまだずっと竜夫のベルトを握りつづけたままであった。竜夫は英子に何か言おうとしたが言葉にならなかった。彼は体を熱くさせたまま英子の匂いを嗅いでいた。
そのとき、一陣の強風が木立を揺り動かし、川辺に沈殿していた蛍たちをまきあげた。光は波しぶきのように二人に降り注いだ。
英子が悲鳴をあげて身をくねらせた。
「竜っちゃん、見たらいややァ」
半泣きになって英子はスカートの裾を両手でもちあげた。そしてぱたぱたとあおった。
「あっち向いとってェ」
夥しい光の粒が一斉にまとわりついて、それが胸元やスカートの裾から中に押し寄せてくるのだった。
白い肌がぽっとうかびあがった。竜夫は息を詰めてそんな英子を見ていた。
蛍の大群はざあざあと音を立てて波打った。それが蛍なのかせせらぎなのか竜夫にはもう区別がつかなかった。このどこから雲集してきたのか見当もつかない何万何十万もの蛍たちは、じつはいま英子の体の奥深くから絶え間なく産み出されているもののように竜夫には思われてくるのだった。・・・
三月十六日 金曜日 いそがしくなりそうな週末 |
ということで、今朝はリハビリの為に湯の町駅前広場の足湯に行ってきた。雨の朝なので入浴客は二人だけ。年寄りのおっさんとおばはんだ。人生をあらかた終えた暇人なのだろう。勿論、そういうふうに見ている私もそう見られているのだろう。おかしかったのは、二人とも足を湯につけながらスマホをいじっている姿で、年寄りにスマホは似合わない。
それはともかく
明日は達川秀三氏講演会なので、パワーポイント操作を拝命した私は、事前に目を通しておかねばならない。
三月十五日 木曜日 無題 |
三月十四日 水曜日 無題
ああ・・・夜が明けてきた。久しぶりの徹夜だ。一睡もしていないのだがアドレナリンがでているせいか眠気は全くない。
三月十二日 月曜日 ヴイヴァルディ四季 |
曲目は次の通り。
福井県内の出演者は5名でそのうち4名は、あわら市内在住で鈴木先生が教えている人たち。休憩時に聴衆のうちの何人かの人がやってきて「牧田さんの奥さん、ステージのどこに座っているんや?」と聞かれて気恥ずかしかった。
とにかく音楽はいい。夢の世界へ我々を誘ってくれる。10代の終わりにウイーンのハイデルベルグ音楽院へ短期留学して以来クラシックから遠ざかっていたが、人生の末期にきて惹かれる思いが強くなってきている。
ここ十数年感じていることだが、睡眠時に見ている夢が本当は現実で覚醒時が本当は夢見時であるようなつまりは夢の浮橋を歩いているような気分になる。
三月十三日 火曜日 無題
今年上半期は予定満載で無理だが下半期に入ったら幾分自由度が出てくるので、ちょっとした旅に出たい。
旅に病んで 夢は枯野を かけ巡る
は芭蕉生前最後の句として有名だ。
そういえば私は二十代の終わりに一ヵ月ほど日赤病院に入院していたことがあって、入院したその日の晩に、憧れていた女性に電話で「見舞いにきてほしい」と懇願したのだが、結局一ヵ月間一度も来てくれなかった。冷たい女だと意気消沈した私は、辞世の句作製に挑んだのだけれども、空っぽ頭には五七五のリズムが浮かんでこない。
結局、芭蕉の上の句をもじって
恋に病んで 夢は枯野を かけ巡る
とマジックで書いたわら半紙をベッドに貼り付けておいたのだが、医者や看護婦が「これは何ですか?」と聞くのがうざくらしくなったのを覚えている。
余談
ここ十数年感じていることだが、睡眠時に見ている夢が本当は現実で覚醒時が本当は夢見時であるようなつまりは夢の浮橋を歩いているような気分になる。
三月十日 土曜日 無題 |
昨日の昼は、久しぶりに丸亀製麺へうどんを食べに行った。
三月九日 金曜日 昨晩 |
メインゲストは達川氏で、集合した面々の「達川秀三氏講演」当日の役割分担について等がテーマ。今回は、精神障害の人間が増えている現実及びA型事業所の果たす役割を一人でも多くの人に知ってもらうことを目的としているとのこと。
私自身、10年前に脳梗塞で倒れて以来、身体障害と脳障害の波状攻撃にさらされ続け、結果として鬱気分に日常が支配されるようになった。それ故か現在は対人恐怖症となっているので、彼の講演に興味を抱く。
彼とは、金津小学校PTA時代以来30年間の親交がある。いろんな不幸を経験しているにもかかわらずエネルギッシュに言論を展開している彼の姿を見るにつけ、私は鼓舞される。
三月八日 木曜日 異界へ行った石牟礼道子 |
むらさき色の夕焼け空になったのは
一色足りない虹の橋がかかっていたせいではなかろうか
この海をどうにか渡らねばならないが
漕ぎ渡る船は持たないし
なんとしよう
媛よ
そういうときのためお前には
神猫の仔をつけておいたのではなかったか
その神猫の仔はねずみの仔らと
天空をあそびほうけるばかり
いまは媛の袖の中で
むらさき色の魚の仔と戯れる
夢を見ている真っ最中 石牟礼道子
ところで、遺書第一部「幼少期篇」を書き終えた。
このあと「青春篇」「老境篇」と続け、最後に「私を愛した女性たち」で閉めるつもりだ。原稿づくりはロングランとなるだろう。まだ死ねない。
三月七日 水曜日 宮本輝短編集読書開始 |
そういえばきょうの市議会は一般質問の日だ。
→定例会一般質問通告(H30.3)
午前中は建築設計の打合せがあるので無理だが、午後には傍聴に行こうと思う。
三月六日 火曜日 無題 |
この本は著者の遺作だ。全集を読んだのでたいていの著書に目を通したことになるが、言葉に体重がかかっていることにいつも感心させられた。
この本のオビにもこう書かれている。↓
「稀有の作家が遺した世界
天よ、いつまでわれらをくるしめるつもりですか。
君主の哀しみと孤独を澄明な筆でえがきだし、物語はふかく静かな響きをたたえはじめる。
三月五日 月曜日 新しい週の始まり |
様々の坊様来訪の折りの控室に通された。室内の壁面に和色を施し眼下に見下ろす九頭竜川の流れが見事な借景となっている。設計者が牧田氏であったことも関係しているのだろう。暫くの間、出された熱々珈琲を飲みながら流れの壮大さを味わっていた。
五月雨を 集めて早し 最上川 (芭蕉)
開口一番
林清子著「黄水仙のみた夢」を進呈。次にストリングFUKUIコンサートと達川秀三氏講演への来場を誘った。一時間ほどの歓談ののち、お寺をあとにした。
帰りの道中、気持ちが凛としている・・私も得度しようかと思ったが、女色を断つのが嫌なので得度しない。
三月四日 日曜日 昨晩のコンサート |
なかなか面白かった。
港町ブルースを得手とする私にとってフルートは昔半年ほど習っただけで勿論聴き上手でもないのだが、門外漢でもわかるような解説つきであるのがよかった。
フルートの親類にピッコロのあることは知っていたが、バスフルートなる楽器のあることは知らなかった。
なんとかという曲の四重奏の前の、「この曲の作者は闇の中に浮かぶ月明りをイメージして作りました。演奏者が奏でる月明りのイメージと聴衆の皆さんがイメージする月明り。その交錯が醍醐味です」という解説を聴いて、私は姿勢を正し目をつむり全身耳となった。
月々に 月見る月は多けれど
月見る月は この月の月(よみ人知らず)
三月二日 金曜日 無題 |
死んでから 仏になるは いらぬもの
生きたるうちに よき人となれ 一休禅師
三月一日 木曜日 きょうから三月 |
その合間を縫って読んでいる藤沢周平著「漆の実のみのる国」も終盤にさしかかってきた。
この本は江戸中期の米沢藩主・上杉鷹山の生涯を描いている。鷹山(治憲)は若くして米沢藩主となり藩の窮乏を目の当たりにした時、「わしは領民を救うために命を懸ける。そのためにはある意味で領民に対して厳しい施策を命じる。つまり鬼になる」と決意する。
要するに藩の近未来を俯瞰して似非民主主義者たち藩高官を敵とする独裁者となった。このあたり、台頭時のナチスと似ている。近臣の竹俣当綱、莅戸善政らとも袂を分かつ。独裁者とは孤高の存在で寂しいものだ。しかしそれに負けない信念の強さだけが世界(この場合は米沢藩)を救うことできる。だからこそ、米のクリントン大統領が就任演説のなかで、彼を激賞したのである。